怒濤の4月も最終日となった。
良く乗り切ったなあ。
最後2日先生と一緒にいたのは勉強になった。
建築家かあ。
落ち着いてきたらゆっくり考えよう。
2012年4月30日月曜日
2012年4月21日土曜日
4/21
4月はなにか落ち着かないみたい。
つかれてきたし、冷静に自分の環境を考えられない。
何か他のことに目をやってる暇がない。
生活が成り立ってない。まだまだだな。
むずかしい。
自分は不器用だ。
全部やるしかないんだけど。
やるか。
2012年4月10日火曜日
2012年4月4日水曜日
走れそうなレール
は何処だろう。
建築が楽しい。
けど何かずれたところで楽しんでる気がする。
エゴを嫌いつつ、自分の中からどろどろ出てくるものは好きだったりするからな。
なんなんだろう
「つくる」って
「つくる」って何が重要なんだろう。
誰のためにつくるのか?
誰得何%?
動機の純粋度は何%
普段の生活で感じることにどれだけ素直で関心を持ってるの?
「つくる」ことで誰がどれだけ喜ぶの?
だれかが喜ぶとき僕は喜んでいいの?
クライアントがつくには相手も喜ばなきゃね。
相手が喜んでいたら、僕はいくら不純で汚いことをしても許され、喜んでいいの?
装飾論。意匠論。
それは建築をつくる側からしたら常に1番だけどさ。
使う側は違うんじゃないの?
そのずれってねじ曲げられてごまかされてはいないか。
力や努力が足らないんだろうな。
やりたいことやるにはなおさら。
これからはそれ以外の時間を如何に効率よくこなすか考えて生活しよう。
建築が楽しい。
けど何かずれたところで楽しんでる気がする。
エゴを嫌いつつ、自分の中からどろどろ出てくるものは好きだったりするからな。
なんなんだろう
「つくる」って
「つくる」って何が重要なんだろう。
誰のためにつくるのか?
誰得何%?
動機の純粋度は何%
普段の生活で感じることにどれだけ素直で関心を持ってるの?
「つくる」ことで誰がどれだけ喜ぶの?
だれかが喜ぶとき僕は喜んでいいの?
クライアントがつくには相手も喜ばなきゃね。
相手が喜んでいたら、僕はいくら不純で汚いことをしても許され、喜んでいいの?
装飾論。意匠論。
それは建築をつくる側からしたら常に1番だけどさ。
使う側は違うんじゃないの?
そのずれってねじ曲げられてごまかされてはいないか。
力や努力が足らないんだろうな。
やりたいことやるにはなおさら。
これからはそれ以外の時間を如何に効率よくこなすか考えて生活しよう。
2012年4月3日火曜日
2012年4月1日日曜日
TOKYO2
とうきょうというまちはにほんぜんこくからひとがあつまる
いっぽうでこの過密都市に年老いてなおすみつづけるひとびとも案外いるようだ
ぼくの生活するであろう東京のなかでも台東区、荒川区は人の臭さにみちているようだ。
いままでのぼくの人生とはまったく違う人生を歩んできたひとたち。
もちろん人生はひとそれぞれだがこれは中国で感じたギャップの大きさに近いとてつもなくおおきな幅のように感じる。
一方でみんな人間である。都市や建築をよりどころにいきている。同じものを食べている。おなじ空気をすっている。同じ光をあびている。
個々の殻は強く、それらがごりごりと押し合い、すり減りながら同じ袋のなかで生きている。
そんな感じ。
ぼくはこの土地に慣れていない。建築にも都市にも。特にそのにおいに。
この土地でものを買い、食べ、水を飲み、シャワーを浴び、光の変化や天気の移り変わりを感じ、一喜一憂し、涙し、酔って、楽しんで、悔しんで初めてこの土地を信頼し、安心できる気がする。
この土地の雰囲気を自分にブレンドする。物理的にも精神的にも生物的にも。
それが完了するとき、自分の中からでてくるどろどろはよりどろどろとしたかけがえのない生命的なものになっていく気がする。
それは楽しみだ。
LEE BUL展をみた。率直な感想はずるい、楽しそう、共感する部分は多いといったところだった。
僕の考える建築はこのようなものだとも思った。LEE BULはより柔軟で器用な印象だ。建築を含む広い領域で思考している。
その点建築家よりも素直で信頼できると思う。
一方で詰めや配慮の深さ、統合して完結させる部分は建築家のほうが強いと思った。
たぶんあえて踏み込まないし、そういった意味で建築に興味はあるという程度の考え方なのだ。
いっている言葉や論理は簡単で非常に分かりやすい。しかし、それ以上にモノの語ることが多く、圧倒的に強い。
建築家は言葉や論理は分かりづらく、モノが弱い。もちろんこれは偏見というか狭い見識でここでは自分のことを考えるとそんな感じ。
「なにがつくりだせるか」
これが大事なんだ。
石上事務所の大変な話聞いたとき、不安を感じたけど少し嬉しかった。結局はそうやってものをつくり出すんだ。LEE BULだっておびただしいドローイングを描くといっていた。
多分半端ないのだろう。
よく弱冠○○才とか紹介されるけど、若いんじゃなくて若くしてそれだけ苦労してるんだな。
俺は頑張る
いっぽうでこの過密都市に年老いてなおすみつづけるひとびとも案外いるようだ
ぼくの生活するであろう東京のなかでも台東区、荒川区は人の臭さにみちているようだ。
いままでのぼくの人生とはまったく違う人生を歩んできたひとたち。
もちろん人生はひとそれぞれだがこれは中国で感じたギャップの大きさに近いとてつもなくおおきな幅のように感じる。
一方でみんな人間である。都市や建築をよりどころにいきている。同じものを食べている。おなじ空気をすっている。同じ光をあびている。
個々の殻は強く、それらがごりごりと押し合い、すり減りながら同じ袋のなかで生きている。
そんな感じ。
ぼくはこの土地に慣れていない。建築にも都市にも。特にそのにおいに。
この土地でものを買い、食べ、水を飲み、シャワーを浴び、光の変化や天気の移り変わりを感じ、一喜一憂し、涙し、酔って、楽しんで、悔しんで初めてこの土地を信頼し、安心できる気がする。
この土地の雰囲気を自分にブレンドする。物理的にも精神的にも生物的にも。
それが完了するとき、自分の中からでてくるどろどろはよりどろどろとしたかけがえのない生命的なものになっていく気がする。
それは楽しみだ。
LEE BUL展をみた。率直な感想はずるい、楽しそう、共感する部分は多いといったところだった。
僕の考える建築はこのようなものだとも思った。LEE BULはより柔軟で器用な印象だ。建築を含む広い領域で思考している。
その点建築家よりも素直で信頼できると思う。
一方で詰めや配慮の深さ、統合して完結させる部分は建築家のほうが強いと思った。
たぶんあえて踏み込まないし、そういった意味で建築に興味はあるという程度の考え方なのだ。
いっている言葉や論理は簡単で非常に分かりやすい。しかし、それ以上にモノの語ることが多く、圧倒的に強い。
建築家は言葉や論理は分かりづらく、モノが弱い。もちろんこれは偏見というか狭い見識でここでは自分のことを考えるとそんな感じ。
「なにがつくりだせるか」
これが大事なんだ。
石上事務所の大変な話聞いたとき、不安を感じたけど少し嬉しかった。結局はそうやってものをつくり出すんだ。LEE BULだっておびただしいドローイングを描くといっていた。
多分半端ないのだろう。
よく弱冠○○才とか紹介されるけど、若いんじゃなくて若くしてそれだけ苦労してるんだな。
俺は頑張る
TOKYO
とーきょーはくさい。
にんげんのにおい。生活のにおい。
人の密度、生活の密度、会話の密度。
すべてはんぱない。
せんだいはきれいだった。
居場所をもたず、こことーきょーにいることは自分のちっぽけさ、やらなきゃいけないということを知らしめる。
朝起きると変わらぬベッドの感触に安心し、ふと顔をあげると見知らぬ世界が広がるギャップ。二度寝などできない。あれはその空間への安心度をあらわすものだな。
ともあれやるしかない。駆け抜けるしかない。
入学までは雄勝とサッカー建築を進めることにしよう。
あとこの1年をどう過ごすかも少しずつ考えていこう。
とりあえず友達がほしい。
にんげんのにおい。生活のにおい。
人の密度、生活の密度、会話の密度。
すべてはんぱない。
せんだいはきれいだった。
居場所をもたず、こことーきょーにいることは自分のちっぽけさ、やらなきゃいけないということを知らしめる。
朝起きると変わらぬベッドの感触に安心し、ふと顔をあげると見知らぬ世界が広がるギャップ。二度寝などできない。あれはその空間への安心度をあらわすものだな。
ともあれやるしかない。駆け抜けるしかない。
入学までは雄勝とサッカー建築を進めることにしよう。
あとこの1年をどう過ごすかも少しずつ考えていこう。
とりあえず友達がほしい。
登録:
投稿 (Atom)