とうきょうというまちはにほんぜんこくからひとがあつまる
いっぽうでこの過密都市に年老いてなおすみつづけるひとびとも案外いるようだ
ぼくの生活するであろう東京のなかでも台東区、荒川区は人の臭さにみちているようだ。
いままでのぼくの人生とはまったく違う人生を歩んできたひとたち。
もちろん人生はひとそれぞれだがこれは中国で感じたギャップの大きさに近いとてつもなくおおきな幅のように感じる。
一方でみんな人間である。都市や建築をよりどころにいきている。同じものを食べている。おなじ空気をすっている。同じ光をあびている。
個々の殻は強く、それらがごりごりと押し合い、すり減りながら同じ袋のなかで生きている。
そんな感じ。
ぼくはこの土地に慣れていない。建築にも都市にも。特にそのにおいに。
この土地でものを買い、食べ、水を飲み、シャワーを浴び、光の変化や天気の移り変わりを感じ、一喜一憂し、涙し、酔って、楽しんで、悔しんで初めてこの土地を信頼し、安心できる気がする。
この土地の雰囲気を自分にブレンドする。物理的にも精神的にも生物的にも。
それが完了するとき、自分の中からでてくるどろどろはよりどろどろとしたかけがえのない生命的なものになっていく気がする。
それは楽しみだ。
LEE BUL展をみた。率直な感想はずるい、楽しそう、共感する部分は多いといったところだった。
僕の考える建築はこのようなものだとも思った。LEE BULはより柔軟で器用な印象だ。建築を含む広い領域で思考している。
その点建築家よりも素直で信頼できると思う。
一方で詰めや配慮の深さ、統合して完結させる部分は建築家のほうが強いと思った。
たぶんあえて踏み込まないし、そういった意味で建築に興味はあるという程度の考え方なのだ。
いっている言葉や論理は簡単で非常に分かりやすい。しかし、それ以上にモノの語ることが多く、圧倒的に強い。
建築家は言葉や論理は分かりづらく、モノが弱い。もちろんこれは偏見というか狭い見識でここでは自分のことを考えるとそんな感じ。
「なにがつくりだせるか」
これが大事なんだ。
石上事務所の大変な話聞いたとき、不安を感じたけど少し嬉しかった。結局はそうやってものをつくり出すんだ。LEE BULだっておびただしいドローイングを描くといっていた。
多分半端ないのだろう。
よく弱冠○○才とか紹介されるけど、若いんじゃなくて若くしてそれだけ苦労してるんだな。
俺は頑張る
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