2012年8月8日水曜日

建築家の解散

「すべては建築である」という彼の発言は、当時の世界の状況だからこそ生まれたのか。

1960年代、モダニズム、またはメタボリズム、可動建築などが一世を風靡していたころ、建築は大きく揺さぶられていたようだ。第二次世界大戦が終わり、経済成長と共に日本では多くの箱がつくられていた頃だ。

ハンス•ホラインは危惧していた。彼は、建築という曖昧な概念が、彼らの日常的な、職業的な作業としてのみ解釈され、旧来の、せまい枠にますます閉じこもり、これを保持することに汲々としているような建築家たちを、その根底から揺さぶろうとした。

もっとも建築の実作において付随させた新たな象徴性は、キャンプなバロックといわれるようなもので、貴族趣味、アナクロニズム、高踏的なものへの偏愛がひそんだマニエリスム的性向を帯びたものである。

環境のなかに投入される全決定要素こそが建築である、つまり、われわれの世界に発生するすべての出来事が建築となるという思想は、建築を情報としてとらえ、非建築的、非実用的な形態を内包する。その背景には発展した建築技術や機械、タナトスとエロスの衝動などが存在する。

磯崎新は、建築の提案が非現実的な色彩をおび、空想的なものでありながらその存在を獲得し、有効性をうむのは、その建築家が社会から疎外されているときだけであるという。

僕にはホラインが、近代化の一方で失われていく重要な何かと、彼自身の体験からくるタナトスとエロスの探求に身を任せているように感じる。そして、「すべては建築である」という彼の発言は外向きのもので、実際は彼自身、すべてが建築であると思っていないのではないか。

「すべては建築である」は当時の情報端末の発展やホラインの体験からうまれたもので、現代でそのままその意味をとらえるのはやや危険である。今現在、実態を持たない建築の提案は、それほど建築界では重要なインパクトを与えていない。なぜなら、建たないから。たとえ建ったとしても、その他の条件によってメッセージとは引き換えに失うものを多く持つ。

現代において建築を取り巻く環境はますます複雑化し、多岐にわたっている。建築は様々な分野を横断して考えられることが求められるが、一方で、実体としての限界もある。

僕の今の考えは、無理に建築の概念を拡張させるのではなく、建築が責任を持つ範囲をもう一度見直すべきだということである。

そしてその範囲の決まられた建築の世界から逸脱する場合は、建築から撤退することが妥当ではないか。

「すべては建築である」を現代において読み直すと「建築から撤退しろ」になると考える。

壮大な意思によって固められた客観的視点からの分析を通して理想を掲げ、程度を調節するのみにとどまるのなら、建築から撤退しろ。建築家の解散。



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