2012年8月4日土曜日

装飾、ファサードを選択する理由の「自然さ、純粋さ」


現代において建築を設計する自分にとって、建築の設計とはその敷地環境を読み取り、施主の要望を反映させ、その場所に相応しい自然さを持ち、同時に新しい環境を生み出すことだと考えている。漠然としているし、マニフェストともいわれるような建築家のエゴみたいなものが現れるかもしれない。きれいにプレゼンはするが、実際のところ条件と自分の理想のバランスを調整しているだけとも言える。
 現代の建築は都市や町に住むすべての人が享受するものではない。建築界で大御所といわれる建築家の作品でさえ、わずかな人にしか受け入れられないこともある。ましてやその思想を理解して利用している人はほとんどいないのではないか。かくいう自分も、建築家の視点でみる建物もあれば、一般の人と何の変わりもない、近いとか安いとか分かりやすいだとかの基準で建物を利用する。建築家の提供する環境や空間にひたる時間は意識して足を運ばなければほとんど得られないのが現状である。
 
 西洋建築史を学ぶと、建築はその時代においていつも重要な役割を負ってきたように感じる。特に宗教建築は、神と人間をつなぐものとして、人々の習慣の一部として、または都市の景観として重要な役割を担っていたのではないか。様式ごとの形態の変化も宗教上の理由や芸術として変化を続けてきたように感じる。何か現代で設計する自分とは大きく異なる価値観で建築がつくられている。建築の設計とはなんなのだろうか。
 先日、スイスのETHのピーター・メリクリのスタジオの様子とその作品が竹中工務店A4ギャラリーに展示をみてきた。メリクリのスタジオは課題のはじめに48枚の様々な国や文化の写真や絵画を提示する。スタジオの履修生は彼らのバックグラウンドにはない風景を目にし、考え、設計のコンセプトを抽出する。ここまでは少し変わった設計課題設定としてそれほど珍しくない。しかし、スタジオで生まれてくる作品達はヨーロッパの街並に自然と落ち着くような作品に仕上げる。これは現代の日本の建築設計を学んできた私にとって衝撃的であった。建築設計のコンセプトを抽出するところまでは同じなのだが、そこからの設計プロセスが違う。私はおそらく客観的にふるまいながら新しい建築へと飛ばしていこうとするプロセスをとってしまう。出来上がるものは新しい形態を示すが、それが本当に都市の中に建ったらどんなに奇妙に感じることだろうか。
 「形態は機能に従う」「近代建築の5原則」「less is more」などの近代建築、またはモダニズムは装飾を否定してきた。その結果、どの都市にも似たような風景が広がった。ポストモダニズムはモダニズムを批判し、装飾が復権する。しかし、コンテクスチャリズム的な引用でない部分も多く見られ、日本ではわずか10年ほど消え去ってしまう。このように近代における装飾は建築の本体とに付随するもの、表面上のもの(キッチュ)として語られてきた。そしてほとんどの場合、文脈のない装飾は忌み嫌われてきた。
 私が知る限り西洋建築史における装飾の出現はギリシア建築のオーダーの柱頭部分のデザインが最初で、その後ローマ建築、ルネサンス建築以降でオーダー自体が装飾として用いられ続けることになる。ゴシック建築のファサードにみられるバラ窓や彫刻も装飾である。しかし、ルネサンス期のイタリア人いわく両者には決定的な違いがあり、「芸術が頂点を極めた古典古代」を継承するがゆえにゴシックは伝統と断絶していると主張した。
 つまり美的規範としてのオーダーの装飾は単なる表層的な装飾ではないということである。それを言ったらゴシックだって中世スコラ哲学の理念、つまり神を中心とした秩序を反映した構成で、ゴシック教会を彩る様々な装飾は、聖職者たちの世界の対する理解そのものであるとも言える。
 ルネサンス建築は結局その後、マニエリスムを経てバロックへとつながり、過渡な装飾を示すような建築も現れる。グリーク・リヴァイヴァルやゴシック・リヴァイヴァルではそれぞれの構造的合理性や明確性の正当さが指摘され、装飾としてのオーダーは批判された。しかし、それらも結局は歴史主義であり、本当の意味で表面的装飾がなくなったのはモダニズムだろう。しかし、モダニズムさえ、ベンチューリによってある意味装飾的であることが指摘された。
 ではそもそも装飾とはいったいなんなのだろうか、建築のファサードなのか、なくてもいいものなのか、メッセージなのか。西洋建築史を振り返ると、初期キリスト教建築のバシリカ式教会のように引用しては発展するといったことが繰り返され、最初は形態と機能が断絶していたものを、徐々に形態を機能に従わせるように発展をしてきた。ベンチューリのあひるの指摘だと、「形態が機能にしたがう」建築はその建物の用途が形態になり、装飾にもなっているものも内包するということだろう。つまり、「形態と機能が断絶」していない限り、無装飾はありえない。一方でそれは折衷主義や様式主義、またはラスベガスにみられるような「様式と機能が断絶」した建築も内包する。おそらくどちらが正しいということはないのだろう。
 
 さきほどの装飾論に評価軸を与えるとすると、あれは装飾またはファサードを選択する理由の「自然さ、純粋さ」といったところだろうか。この視点で見ると西洋建築史における変遷はそれぞれの純粋さをもっていたように思える。もちろん選択する理由の「自然さ、純粋さ」というのは対象によって異なる評価軸のためよくないかもしれない。なぜならそれは宗教者側の視点であったり、パトロンの視点であったりもするからだ。   
 それはさておき、人々の意識に訴えるような違和感を与えやすい対象は存在すると私は思う。例えば建築が建つ周辺の景観を対象とすると分かりやすい。建築は大きく、風景に大きく影響を与えるのでこの意味での自然さや純粋さは必要となる。つまりファサードである。現代においては古い西洋建築のほとんどが観光地になっているように景観としてだけ見たときの自然さや純粋さを持ちながら目を引くものになっている点は評価されるべきだと思う。先にあげたメリクリのスタジオの作品はその自然さ、純粋さを持っているのだろう。宗教上の理由を建築に求められない現代では、よりこの景観を対象とする評価は強いように感じる。 ルネサンス期のブルネレスキのフィレンツェ大聖堂のドームにしても、純粋な古典古代の再生と言うよりも自らの構想を実現するためにその目的に応じて選択している点、装飾の自然さ、選択される純粋さが重要であったのではないだろうか。
 景観に対する装飾やファサードを選択する理由の「自然さ、純粋さ」とはなんだろうか。おそらくこれは案外簡単で、色、材料、プロポーション、密度が大きく影響を与える。おそらく周辺と同じものほど景観になじむであろう。ディティールや位置、規模は変化し得るし、先ほど挙げた項目の中にも変化してもなじむものがあるだろう。
 以上から現代の建築がある種の自然さを失っている、または学生が形態的に目新しい建築を目指そうとする理由を2つ考察する。
 1つは現代の建築が周辺環境に対する自然さを失っているからではないかと推測する。例えば現代の日本の郊外にひろがる自然の風景は、スーパーがあり、ハウスメーカーの戸建住宅があり、国道を車が走る風景である。その場所で建築を求める人々はその風景が前提となる。またそのような風景の中で育った建築を学ぶ現代の学生は、豊かな自然や八百屋や魚屋さんが建ち並ぶ古き良き風景などの原風景にリアリティなど感じない。設計において各人の中でリアリティあるものしか扱われない傾向は、大学の最初の設計課題でよくみられるそうだ。しかし、現代の建築家はハウスメーカーのようなキッチュな意匠をまとったものを建築としてみなさず、現代の建築の価値観を学生に植え付ける。
 建築家の作品には傾向があり、それはある意味、モダニズム建築のように似たようなものがあちこちに建てられる。なぜなら建築家は新しい建築の内部空間に腐心しているからだと考える。建築の外部は自由につくれないし、監理する人も様々であるから自由に扱える内側に向くのは当然である。もちろん敷地の周辺環境を考え、それをふまえて設計するのだろうが、あくまで建築の内側に向く。一概には言い切れないがこの傾向は現代の建築家には多かれ少なかれ必ず存在する。
 つまり外からみたときの建築がその場にあらわれる「感触」みたいなものがおろそかになってはいないだろうか。さきほども言ったように建築は大きい。色や材質が変わるだけで外から見る雰囲気はかなり変わる。メリクリは建築家ヴァレリオ・オルジアティと彫刻家のハンス・ヨゼフソンに師事したが、私はこのことがメリクリの「自然さ」と関係がなくはないように思う。彫刻は外から見るもので周辺環境に対するモノの存在を考える分野である。ルネサンス期のブルネレスキは金銀細工士、ミケロッツォは彫刻家でもあった。このようにモノの周辺環境に与えるリアリティは建築家にとって必要な能力ではないか。装飾はそのリアリティの上で判断されるべきものであると考える。
 もう1つは建築を求める側の思想が不足しているため、建築家の思想が一人歩きしているのではないかということである。社会と建築家は剥離しているという考え方がある。建築家は「発注者(施主)の命令にしたがって建築をつくる技術者である」と一般的に解釈されているということだ。建築家はもちろん施主のために建築をつくるが、それだけではなく、その周辺環境など様々なファクターを考慮して建築をつくる。その環境を領有するものすべてのためにつくるのである。そこには物理的な環境だけでなく、ときにはメッセージが込められることだってある。
 現代において家を建てるときまたは選ぶとき、まず何を基準にするだろうか。広さと値段である。次に、日当り、駅やスーパーとの距離。これらが何を示すかというと先ほど力説した周辺環境にたいする自然さが施主側が考慮しないということだ。ファサードの色や建物の大きさはもちろん装飾なんて論外である。ごくたまに装飾が用いられるがそれは周辺との同調ではなく、差異化の手段としてキッチュ的に用いられる。世間的に無頓着ともいえる建築の外部環境への影響は統一感のないごったな景観を生み出す。建築家はそれぞれの思想を主張し、一般の建築と剥離する。このような状況が一般の人々と建築の剥離を招いているのではないか。

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