重要な判断をしなくてないけないだろう。いくつかしっかりと考えなくてはいけない問題がある。
自分は建築家になりたいのか。
建築科に入ったのはなんとなく建築ってかっこいいなって思ったからで、高校生のときには建築家という存在すら知らなかったように思う。少なくとも他の機械だとか化学だとか数学だとかよりは面白そうかなって思ったぐらいだ。当初は医学部を目指して受験勉強し、センターの試験の点数が悪かったので建築に志望を変えた。当時は東北大学に入ることは妥協であった。また受験するかかなり悩んだが、受験勉強に疲れたこともあり、そのままい入学することにした。東北大学はよくも悪くも1,2年生のときはまったく建築にふれることがなかったので、そういった悩みを忘れることができた。
建築の設計が始まったのは2年の終わりからである。何かつくってこいと言われて何をつくったら良いか分からず、適当に雑誌にのってるものをパクってつくった。そこで最初の講評があり、悩んだことは伝わったものの最終には残れなかった。不完全な模型を片手に話す友達を見て、それまでの難解な数学、化学などの学問とは異なる能力が求められているような気がした。建築の設計が完全に論理的なものでないこと、物ができあがることに対して面白いと感じたんだと思う。
そこから大学生活は設計の記憶しか無い。製図室に閉じこもり、徹夜を何度もして考えた。それでも設計は良くわからなかった。ただ、考える量、手を動かす量は評価してくれることがなんとなく分かった。ただ、いい建築はよく分からない。
設計の基本的なモチベーションは反骨心だった。基本的に建築家の言っていることが無責任で根拠が無くて、または思慮が浅いように思えてそれが嫌だった。設計に共に取り組む仲間の作品も無責任に物が出来ているようにしか思えなかった。
多分それは、本当は自分がデザインが得意でないことを知っていて、形のできる理由をできるだけ思考のプロセスに求めたからだと思う。
大学院は縁もあって東京藝術大学にはいった。形をつくることが苦手なのに入学することに違和感は感じたが周りの流れでそうなった。
ここでいう流れは東日本大震災による復興への関わりによるものだが、この震災こそ以前から自分が抱いていた建築や建築家に対する不信感をいっそう強めることになった。数多くの建築家がリアリティの描いた概念的思想や、復興計画の主流とは離れた集会所などを設計する様子を見て、とても腹立たしかった。
自分の進路の先にある建築家は、社会に対してこれくらいしか出来ないのかと。
もちろん取り組み1つ1つを見ていった時、その都度評価軸を変えてあげれば意味を持つ取り組みである。しかし、その評価軸はそこに住む人、その町にとって、大きくは被災地全体に対して、つまり、建築界を超えた世界観で最善の取り組みであるかに対してはとても強い疑念を持った。
自分の卒業設計や修士設計はコンテクスチャリズムの系譜にあると思う。形をつくることが苦手で慎重な分、物ができるコンテクストに執着する。そのための膨大な調査やスタディは自分の特徴だと言える。
特に修士設計は社会的な震災というテーマを扱った分、社会に対して具体的な自分の案をもって問いかけたわけなのだが、結果あまりうまくいっていない。
結果を出すには時期早々なのかもしれないが、復興計画という目まぐるしく計画やその条件が変わる世界において、1つの提案が意味を持つ期間は限られる。
問題はなぜ上手くいかなかったかだ。
復興の現場には建築だけでなく、様々な分野の人が関わる。そういった意味で狭い建築界の価値観にとらわれない提案が求められ、コンテクスト系の自分は少し向いていた。
ただ、やはり案を考えるとき、最初に頭にあるのは美しい、きれいな町や建築をつくりたいという心情的なモチベーションであり、それを実現するために様々な分野を取り込みながら考えている。
しかし、事業や制度といった行政の態度はまちの全体の骨格を決めるものであり、都合良く取捨選択などできない。また、事業や制度はお金が担保される一方で、美しさを求めるあまり、事業にのらなかったとき、自費で実行しなくてはいけない。それはほとんど不可能である。
このように書いてしまうと行政や事業が悪いような言い方になってしまうが、一方できれい、美しいといった美的概念が必ずしも共有されないことや最優先事項にならない状況があり、それを中心においた計画はいかにも曖昧に感じる。
結果、美しい、きれい、技術的概念が共有されたときにしか、建築家が活躍できない。それは理解ある施主と1つの敷地が与えられたときなのかもしれない。
日本では商業主義の価値観が様々な物事のほとんどを決定するだろう。そうしたとき、デザイン行為は商業と直接結びつかなくてはいけない。
建築家がお金をもらうためには、建物を設計するデザイン料として受け取るのが最も分かりやすい。しかし、一方でそのような需要は現在の日本では低く、建築家に頼まずにハウスメーカーまたはマンションに住むのが主流である。そしてまちなみはそれらマジョリティの建築群によってつくられている。
自分は設計の何が面白いと感じたか。必ずしも論理的でないこととものが出来上がること。つまり、完全に自動的につくられるのではなく、趣向が反映できること。物がつくれること。それとあと人の役に立つ建築がしたい。
このモチベーションを上手く活かせないだろうか。資格や立場も上手く身に付けないといけないだろう。どこかにいい働き方はないだろうか。
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