2014年4月17日木曜日

6年間の残像

学部2年生の後期から建築設計の課題が始まり、そこから修士2年の卒業までほとんどそれに費やした。
夢中になって取り組んだ根底にあったものはなんだろう。そして何が残っているのだろう。

建築をつくることは難しい。ただ壁を建てるだけではない。ただ使い方を考えてつくれば言い訳でもない。相手の要望に応えてその場の誰もが納得してつくられたとしても良い建築になるとは限らない。

現実世界につくり出せるものはただの物体であり、そこから建築や空間といったものの議論への接続はとてもデリケートであるらしい。

自分が建造物ではなく建築と呼ぶものはどんなものかと考えると建築的思考の積み重ねが感じられるもの、でもそれは形体という表層的情報から感じられるものであることがしばしばである。その表層的な情報の判断は多種多様で、もしかしたら過去に見た映画の雰囲気の良い場所ににているといった世俗的な判断によるものであるときもあるかもしれない。雰囲気の良い場所は流行的な思想に乗っているものかそれともそこにいる人たちが生き生きとした活動(活発に行動し、発言している状態)を目撃したときか。でも流行は変わっていくし、人々もそこにいたくているわけではないかもしれない。無理に笑顔をつくっているかもしれない。

建築がどこまで背負ったとき建築となるのか。
建築は箱でしかないのは確かだ。ではどんな箱をつくるか、そしてそれはどんな可能性を引き出そうとしているか、それをしつこく考えるのが建築的思想であり建築家の役目ではないか。

しかし社会においてそのような可能性をデザインすることは難しい。方法と結果がイコールで結ばれるような合理的な手続きとして様々な判断が行われ、建築的思想の入り込む余地は少ない。でもそれはモノにゆだね、考えること、進化することを放棄した人間という生物の終末を予感させるものではないだろうか。それはハリウッド映画で描かれる科学の発展が人類を滅ぼす的な壮大なものではない。


一方で建築的思想はすぐに結果を出せない。実際にはリミットがあり、デザインはリミットが決めるという考え方もある。

少なくとも学生の課題ではそのような社会的要求に対する応答は課せられないので、建築的思想が育みやすい。一方で曖昧な課題で設計が分からないと放棄することや、形体を安易に提出すること、社会的要求に対して中2病のような妄想で提案することには吐き気がする。

もう1つ難しい点が建築家は他人のものをつくるということだ。サービス業だと考えれば、お金を払ってくれた施主の言うことを何でも聞くのが普通だと一般的には考えられるだろう。マッサージ師が腰が痛い人のために肩をマッサージすることがあるだろうか。

大事なことは施主の要望の背景を読み取り、ある一般化や普遍化といった作業に到達することで様々な可能性を引き出せることなのかもしれない。それは建築的思想の本望である。

建築的思想によって可能性を引き出すことは樹形図をかくことに似ている。単純に済まされがちな手続きによる微細な環境の変化が何をもたらすか可能な限り妄想する。

この妄想劇における建築家の最大の武器がスタディである。人間の頭をコンピューターだとしたら人によってCPUやGPUは異なるがある限界値はあるだろう。つまり、物体をある分子の集合体だとしてみたとき、その分子1つ1つは何が良いか、そしてそれらの組み合わせはどれがよいかなど、詳細にみればきりがない。しかし、スタディというあるパターン化された状態をつくることでそのような手続きをすっ飛ばして、重要だと思われる箇所について熟考できる。一方でこのスタディの手法は現実に立ち上がった建築とのギャップを完全に埋めるものではなく、スタディで無意識に捨象される因子への配慮を忘れてはいけない。

それでもできるだけ細かく考えることは可能で、それだけ時間がかかるし、モノがなかなか生まれない。また、建築は所詮「箱」であるから中身に支配され、箱はもしかしたら捨てられるかもしれない。だから相思相愛とはいかず、いつまでも告白できない中2男子のようだ。

いらっとしてしまうのはそのように必ずこうなると断言できない物事に対して、断言してしまう建築家だ。それは成功率10%なのに対して絶対に成功するといっているようなものだ。

つくらないとか、わからないというのがいつでも誰でも本音だろうが、そこを議論の対象にするのではなく、何をするのが最良かという議論をするのが建築的思想だ。そういった意味で、自分はいつも自信がなかったけど、自信があったのだと思う。


一昔前の建築雑誌を見たり、昔の学生の卒業制作をみると驚くほど、表現がシンプルである。一方で現代は様々な技法により、多種多様な表現が可能となり、広告化している風潮がある。特に学生はリアルな建築をつくれないから、妄想イメージをどのように表現するかに腐心したりする。表現は大事だが、建築をドライにみる視点を忘れてはいけない。広告として目立つこと、絵として美しいことはどれほど重要か。それが実際の建築の素材に置き換わり、そこら辺にいるおばさんやおじさんが現れたとき、期待したように演技してくれるだろうか。そのようなものに騙される建築家はバカだとしかいいようがない。



結局、6 年間やって何が良い建築かわからない。しかし、最良の可能性を残すための手続きの勉強や先人の取り組みを少し知れた気がする。それはやはり課題で自分が壁にぶちあたったときに、手を差し伸べるように現れることが多かった。結論、動いた先に成長が待っているということだろうか。


これからは直感を大事にしていくことを大事にしようと思う。それは自分を知ることと洗練される気がする。もっと自分のことを考えよう。





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