2014年11月4日火曜日

久々に。

住宅の設計をしているが、コンセプトを設定することが難しい。現実的な条件の上で設定するコンセプトはおとなしくならざるをえない。

その反面、平面図をかいたり模型をつくったりするのは楽しい…

建築にたいするチャレンジは施主の了解の上で成り立つものならば、そのチャレンジ具合は施主によるのか。

決められた範囲の中で良いものを選ぶことはつくるときには楽で、むしろ何も決められてないような状態のほうが難しいし、当たり前だが自分のチャレンジも差し込める。

最近、おだやかな日々。能天気になろうとしている。

もう少し心の余裕がほしいところだ。

2014年6月10日火曜日

さてどうなるか

漁師小屋どころか自分の立場さえデザインできていない今の自分。

過ぎ去っていく環境がなんて幸せだったのだろうかとよく感じる。


今、大きく舵をきり始めている。今までのいい意味でも悪い意味でも続けていた執着をいったん取り去ってみる。

きっと新たな居場所は見つかっていくと信じている。それまで気楽にいなきゃ。

2014年4月26日土曜日

セルフマネジメント

建築設計に時間がかかると知ってから、できるだけ時間をかけようと心がけてきた。時間をかけた分良いものになる可能性が高くなるからだ。

しかしその一方で様々な時間を犠牲にした。そして自由な時間も「今できていないやりたいこと」に取り組み、自分をいたわることを怠っていた。

長く作業することを良いことだと思っていたが、自分の体調や気持ちをいたわって初めて身体と精神のバランスが保たれるし、それも含めたストイックさが必要だと感じた。

修士に入ってからより精神的に負荷のかかる仕事が増え、それらが終わるころには驚くほど疲れている自分がいることに気がついた。そしてそこから通常の状態に戻るまでの時間は、その疲労の蓄積の大きさに比例するように長く、そして難しくなっていくことに気がついた。

作業の量を落とそうと思っているのではない。当たり前のことだがメリハリをつけ、目標を定めて淡々と、ある意味無感情に取り組むのが大事でその時間に実は癒されているの自分がいる。ずっとすべてを悩んでいると疲れるのは当たり前だ。

今日、保身か挑戦かという話を美容師としたのだが(笑)、最近はどの業界も保身が多くなっているという話になった。確かに日本は不景気だし、以前よりも保身的になるのは仕方ない。でもそんなの馬鹿らしいから自分は挑戦しようと思い、がむしゃらに目の前のことに取り組んで来た。しかし、実は保身と挑戦は明確に分けられるものではなく、それも適度にバランスを保ちながら行なうべきことだと実感した。

例えば進路が決まっていれば、普段の悩み事は1つ減るので今の挑戦により集中できる。また、挑戦し続けているようでじつは新しい道へ可能性を自ら閉ざしている場合もあり、適度に立ち止まることも重要だ。


ここまで当たり前のこと書いている。知ってはいたが実感して初めて人ごとではなく、自分にも当てはまることだと気付いたのか。


保身か挑戦か。そのような議論ではなく、将来どうなりたいか、それにはどうすればいいかを具体的に数年ごとにさだめ、それに向かって準備し、日々はそのために生きればいい。こなせたら遊べばいい。道筋はおそらく当初考えていたものから変わっていくだろうが、目標を見失わなければ大丈夫なはずだ。


だから自分が今本当に考えるべきは、時代の流れを良く知り、先見性をもった具体的な目標を定めることである。具体的にどのような立場でどのような組織を自分の周りに付けていったらできるのか。そしてその具体的な目標は今の未熟な状態で考えるのだから誤っているのかもしれないが、自信をもって突き進むのみか。

2014年4月17日木曜日

6年間の残像

学部2年生の後期から建築設計の課題が始まり、そこから修士2年の卒業までほとんどそれに費やした。
夢中になって取り組んだ根底にあったものはなんだろう。そして何が残っているのだろう。

建築をつくることは難しい。ただ壁を建てるだけではない。ただ使い方を考えてつくれば言い訳でもない。相手の要望に応えてその場の誰もが納得してつくられたとしても良い建築になるとは限らない。

現実世界につくり出せるものはただの物体であり、そこから建築や空間といったものの議論への接続はとてもデリケートであるらしい。

自分が建造物ではなく建築と呼ぶものはどんなものかと考えると建築的思考の積み重ねが感じられるもの、でもそれは形体という表層的情報から感じられるものであることがしばしばである。その表層的な情報の判断は多種多様で、もしかしたら過去に見た映画の雰囲気の良い場所ににているといった世俗的な判断によるものであるときもあるかもしれない。雰囲気の良い場所は流行的な思想に乗っているものかそれともそこにいる人たちが生き生きとした活動(活発に行動し、発言している状態)を目撃したときか。でも流行は変わっていくし、人々もそこにいたくているわけではないかもしれない。無理に笑顔をつくっているかもしれない。

建築がどこまで背負ったとき建築となるのか。
建築は箱でしかないのは確かだ。ではどんな箱をつくるか、そしてそれはどんな可能性を引き出そうとしているか、それをしつこく考えるのが建築的思想であり建築家の役目ではないか。

しかし社会においてそのような可能性をデザインすることは難しい。方法と結果がイコールで結ばれるような合理的な手続きとして様々な判断が行われ、建築的思想の入り込む余地は少ない。でもそれはモノにゆだね、考えること、進化することを放棄した人間という生物の終末を予感させるものではないだろうか。それはハリウッド映画で描かれる科学の発展が人類を滅ぼす的な壮大なものではない。


一方で建築的思想はすぐに結果を出せない。実際にはリミットがあり、デザインはリミットが決めるという考え方もある。

少なくとも学生の課題ではそのような社会的要求に対する応答は課せられないので、建築的思想が育みやすい。一方で曖昧な課題で設計が分からないと放棄することや、形体を安易に提出すること、社会的要求に対して中2病のような妄想で提案することには吐き気がする。

もう1つ難しい点が建築家は他人のものをつくるということだ。サービス業だと考えれば、お金を払ってくれた施主の言うことを何でも聞くのが普通だと一般的には考えられるだろう。マッサージ師が腰が痛い人のために肩をマッサージすることがあるだろうか。

大事なことは施主の要望の背景を読み取り、ある一般化や普遍化といった作業に到達することで様々な可能性を引き出せることなのかもしれない。それは建築的思想の本望である。

建築的思想によって可能性を引き出すことは樹形図をかくことに似ている。単純に済まされがちな手続きによる微細な環境の変化が何をもたらすか可能な限り妄想する。

この妄想劇における建築家の最大の武器がスタディである。人間の頭をコンピューターだとしたら人によってCPUやGPUは異なるがある限界値はあるだろう。つまり、物体をある分子の集合体だとしてみたとき、その分子1つ1つは何が良いか、そしてそれらの組み合わせはどれがよいかなど、詳細にみればきりがない。しかし、スタディというあるパターン化された状態をつくることでそのような手続きをすっ飛ばして、重要だと思われる箇所について熟考できる。一方でこのスタディの手法は現実に立ち上がった建築とのギャップを完全に埋めるものではなく、スタディで無意識に捨象される因子への配慮を忘れてはいけない。

それでもできるだけ細かく考えることは可能で、それだけ時間がかかるし、モノがなかなか生まれない。また、建築は所詮「箱」であるから中身に支配され、箱はもしかしたら捨てられるかもしれない。だから相思相愛とはいかず、いつまでも告白できない中2男子のようだ。

いらっとしてしまうのはそのように必ずこうなると断言できない物事に対して、断言してしまう建築家だ。それは成功率10%なのに対して絶対に成功するといっているようなものだ。

つくらないとか、わからないというのがいつでも誰でも本音だろうが、そこを議論の対象にするのではなく、何をするのが最良かという議論をするのが建築的思想だ。そういった意味で、自分はいつも自信がなかったけど、自信があったのだと思う。


一昔前の建築雑誌を見たり、昔の学生の卒業制作をみると驚くほど、表現がシンプルである。一方で現代は様々な技法により、多種多様な表現が可能となり、広告化している風潮がある。特に学生はリアルな建築をつくれないから、妄想イメージをどのように表現するかに腐心したりする。表現は大事だが、建築をドライにみる視点を忘れてはいけない。広告として目立つこと、絵として美しいことはどれほど重要か。それが実際の建築の素材に置き換わり、そこら辺にいるおばさんやおじさんが現れたとき、期待したように演技してくれるだろうか。そのようなものに騙される建築家はバカだとしかいいようがない。



結局、6 年間やって何が良い建築かわからない。しかし、最良の可能性を残すための手続きの勉強や先人の取り組みを少し知れた気がする。それはやはり課題で自分が壁にぶちあたったときに、手を差し伸べるように現れることが多かった。結論、動いた先に成長が待っているということだろうか。


これからは直感を大事にしていくことを大事にしようと思う。それは自分を知ることと洗練される気がする。もっと自分のことを考えよう。





2014年4月2日水曜日

2014年度の進路がダブルブッキングしている。

大学の研究生とAAインターンである。先生達はAAインターンに自分がいくものと考えているが、自分は踏ん切りがついていない。一方で研究生というのも居心地が良くない。なんでこうなったかはうんざりするので思い出さず、今はどっちが良いのかしっかりと考えたい。


修士設計終了時は色々と盛り上がりプロジェクトを続けることになっていたが、現地での雲行きが怪しくなり、状況も変わって来たことから微妙な立場となっている。

自分は正直どっちでも良いと考えているのだが、一方でいつも周りに流されてばかりなので自分の意志でしっかり決断しなくてはいけないとも思っている。

修士設計の続きを具体的に進められないと分かった今、研究生で残る道はやや消極的。一方で震災後3年間、ほぼ脇目もふらず取り組んで来たので、一度立ち止まって進路を考えても良い気がする。

そもそもこの2年間ogtのプロジェクトに対してぶーぶーいってきた理由は分かっている。1つは今までのややアートよりのプロジェクトに対して、やや地味で面白みに欠ける点。正直あまりかっこいいプロジェクトだと思えない。でも今後の建築家の在り方を探るにはとても意味のあるプロジェクトだとは感じる。またこの道はもしかしたら建築家ではなく別の道につながっていく可能性もはらんでいると僕は思う。

2つ目は環境。先生の思想は自分とはいくつかの点で相容れないものがある。組織の中での自分の立場も情報が来ず、パシリであったことに不満があった。パシリは考える権利を与えられない。当初は壮大な夢を抱えていた組織も、次第に複雑化する現場では結局建築の範疇でしか口がだせず落ち着き気味。修士設計で皮肉ったつもりが一学生の矢は現地の制度や仕組みといったものに届かず失墜した。

3つ目は自分の立場の特殊性。学部3年生から建築の勉強が本格的に始まったが、m2までの4年間のうち、3年間被災地プロジェクトをやっている。周りのみんなは就職だとか、留学だとか、自分のために着実なルートを歩むというのに、自分は慈善活動しかしていない。正直生理的にアトリエにはいけないと思っていたので、就職もしたかったし、留学ももちろんしたかった。就活をしなかったのは自分への甘えで、この慈善活動期間は無かったことにしたいと思っていたからだ笑。だから後できっちり自分のために勉強して就職しようと思っていた。実際色々と厳しかったのだが。そして昨日所属が決まらないまま、今年度を迎えた。

こんなに文句があるのになぜやめることを即答しないのか。それはそれなりにAAインターンのメリットをみているからだ。まず前述した2つ目の環境が改善される。やるからにはよくプロジェクトを知った上で動きたいし、東京の環境は年々モチベーションが下がっているようだ。また今後ドクターにいくことを見据えたとき、現地で深く携わることでドクター論文のテーマが見つけやすいかもしれないし、何かプロジェクトの主導権を握っていくことができる。実務経験も積めるかもしれない。そして仙台は住みなれた街であるから、休日の気分転換もしやすいかもしれない。一方で向うに行っても友達の多くは卒業して仙台を離れているので1人かもしれないが。

半期後にドクターを受けようと思っているが、つなぎとしてはインターンで過ごすほうが良い気がするが、一方で建築士と英語の試験のために勉強時間も必要だ。試験はそれほど先ではないから、集中して試験まで勉強するのも良いのではないかと感じる。

研究生で時間が空いたとして、自分の進路に何か変わりはあるだろうか。具体的に時間ができたとしてどのように動こうか。すでに建築系の正統な就職は厳しいので、あまり選択肢はない。留学したいという願望もドクターが一番実現可能性が高い。自分の性格、作品や取り組みを見たとき、大学が合っているのではないかとも感じる。

どこの大学を目指すのかが今一番の問題なのかもしれない。それによって今年どこにいくべきかが変わる。震災系の取り組みは今後30年でみたとき、どのような立ち位置だろうか。建築家には被災地への取り組みに否定的な人も大勢いる。またアーキエイド自体の動き方も雲行きが怪しい。領域横断的にふるまい、ときには建築をつくらないことも許容した活動。これらは今後の建築家の在り方として可能性があると感じる。意匠設計志願の大半の若者が組織設計またはアトリエにいく中で、それらの潮流にのることは人と違うことが出来るのかもしれない。被災地復興に関われるのも今だけだと考えると、外からみたら関わり続けるべきというところだろう。もし少し消極的になるとしたら最初に述べた違和感に従うことになる。今自分が懸念すべきは、そのようなアート系のプロジェクトと、留学の2点か。どのようにそれらを被災地プロジェクトとつなげていくか。それらを両立した人材は面白そうだと感じる。留学は大学の留学制度に従うのが良いだろう。アート系の取り組みは独自に勉強し自分の中で被災地プロジェクトと融合していくか。

もう1つ、活動の拠点も懸念事項だ。ドクターが東北大であれば仙台が拠点になっていくだろうか。いま被災地プロジェクトをしに東京を離れるとしばらく戻ってこない気がする。東北大のドクターであればいろいろと両立できそうだが、いろいろ問題が...






2014年3月4日火曜日

重要な判断をしなくてないけないだろう。いくつかしっかりと考えなくてはいけない問題がある。

自分は建築家になりたいのか。

建築科に入ったのはなんとなく建築ってかっこいいなって思ったからで、高校生のときには建築家という存在すら知らなかったように思う。少なくとも他の機械だとか化学だとか数学だとかよりは面白そうかなって思ったぐらいだ。当初は医学部を目指して受験勉強し、センターの試験の点数が悪かったので建築に志望を変えた。当時は東北大学に入ることは妥協であった。また受験するかかなり悩んだが、受験勉強に疲れたこともあり、そのままい入学することにした。東北大学はよくも悪くも1,2年生のときはまったく建築にふれることがなかったので、そういった悩みを忘れることができた。

建築の設計が始まったのは2年の終わりからである。何かつくってこいと言われて何をつくったら良いか分からず、適当に雑誌にのってるものをパクってつくった。そこで最初の講評があり、悩んだことは伝わったものの最終には残れなかった。不完全な模型を片手に話す友達を見て、それまでの難解な数学、化学などの学問とは異なる能力が求められているような気がした。建築の設計が完全に論理的なものでないこと、物ができあがることに対して面白いと感じたんだと思う。

そこから大学生活は設計の記憶しか無い。製図室に閉じこもり、徹夜を何度もして考えた。それでも設計は良くわからなかった。ただ、考える量、手を動かす量は評価してくれることがなんとなく分かった。ただ、いい建築はよく分からない。

設計の基本的なモチベーションは反骨心だった。基本的に建築家の言っていることが無責任で根拠が無くて、または思慮が浅いように思えてそれが嫌だった。設計に共に取り組む仲間の作品も無責任に物が出来ているようにしか思えなかった。

多分それは、本当は自分がデザインが得意でないことを知っていて、形のできる理由をできるだけ思考のプロセスに求めたからだと思う。

大学院は縁もあって東京藝術大学にはいった。形をつくることが苦手なのに入学することに違和感は感じたが周りの流れでそうなった。

ここでいう流れは東日本大震災による復興への関わりによるものだが、この震災こそ以前から自分が抱いていた建築や建築家に対する不信感をいっそう強めることになった。数多くの建築家がリアリティの描いた概念的思想や、復興計画の主流とは離れた集会所などを設計する様子を見て、とても腹立たしかった。

自分の進路の先にある建築家は、社会に対してこれくらいしか出来ないのかと。

もちろん取り組み1つ1つを見ていった時、その都度評価軸を変えてあげれば意味を持つ取り組みである。しかし、その評価軸はそこに住む人、その町にとって、大きくは被災地全体に対して、つまり、建築界を超えた世界観で最善の取り組みであるかに対してはとても強い疑念を持った。

自分の卒業設計や修士設計はコンテクスチャリズムの系譜にあると思う。形をつくることが苦手で慎重な分、物ができるコンテクストに執着する。そのための膨大な調査やスタディは自分の特徴だと言える。

特に修士設計は社会的な震災というテーマを扱った分、社会に対して具体的な自分の案をもって問いかけたわけなのだが、結果あまりうまくいっていない。

結果を出すには時期早々なのかもしれないが、復興計画という目まぐるしく計画やその条件が変わる世界において、1つの提案が意味を持つ期間は限られる。

問題はなぜ上手くいかなかったかだ。

復興の現場には建築だけでなく、様々な分野の人が関わる。そういった意味で狭い建築界の価値観にとらわれない提案が求められ、コンテクスト系の自分は少し向いていた。
ただ、やはり案を考えるとき、最初に頭にあるのは美しい、きれいな町や建築をつくりたいという心情的なモチベーションであり、それを実現するために様々な分野を取り込みながら考えている。

しかし、事業や制度といった行政の態度はまちの全体の骨格を決めるものであり、都合良く取捨選択などできない。また、事業や制度はお金が担保される一方で、美しさを求めるあまり、事業にのらなかったとき、自費で実行しなくてはいけない。それはほとんど不可能である。

このように書いてしまうと行政や事業が悪いような言い方になってしまうが、一方できれい、美しいといった美的概念が必ずしも共有されないことや最優先事項にならない状況があり、それを中心においた計画はいかにも曖昧に感じる。

結果、美しい、きれい、技術的概念が共有されたときにしか、建築家が活躍できない。それは理解ある施主と1つの敷地が与えられたときなのかもしれない。

日本では商業主義の価値観が様々な物事のほとんどを決定するだろう。そうしたとき、デザイン行為は商業と直接結びつかなくてはいけない。

建築家がお金をもらうためには、建物を設計するデザイン料として受け取るのが最も分かりやすい。しかし、一方でそのような需要は現在の日本では低く、建築家に頼まずにハウスメーカーまたはマンションに住むのが主流である。そしてまちなみはそれらマジョリティの建築群によってつくられている。


自分は設計の何が面白いと感じたか。必ずしも論理的でないこととものが出来上がること。つまり、完全に自動的につくられるのではなく、趣向が反映できること。物がつくれること。それとあと人の役に立つ建築がしたい。

このモチベーションを上手く活かせないだろうか。資格や立場も上手く身に付けないといけないだろう。どこかにいい働き方はないだろうか。

2014年1月3日金曜日

進路と建築思想

さてこれからどうしようか。なんだかんだ卒業まであとわずか。一応は修士設計までやりきったわけだ。

ここからの選択肢を考える前に、現在あげられる他者の意見をまとめえてみよう。

・まったく関係のないところにひょこっといってほしくない(os)
・自分のプロジェクトとして守っていくべき(t)
・研究好きそうだし、博士が向いているのでは(m,m)
・博士は実務を積んでからにすべき(t)

僕の進路を考える上で大事なのはogtでの活動にどのように関わるのか、やめるのかを考えることだろう。やめずに続ける場合にあげられる理由として2つある。
・漁師小屋のプロジェクトを続けるため
・これまでと同様に多様な復興活動に関わり続けるため(住宅や小中学校?)

漁師小屋のプロジェクトについては修士設計としてプレゼンは終わったが、現地でのプレゼンのためにさらに整えていく必要がある。先生からは以前、冊子にまとめるなどの意見もあった。それらから類推するに今後2,3ヶ月はやることがありそうだということ。しかし、復興の現場は変化が激しい。今はタイムリーで意味をもつ提案でもいずれは価値が薄れることはあるだろう。価値を保ち続けるためにはそれなりに上手くいく必要がある。つまり、行政側と住民側から手応えをつかむということだ。おそらく片方だけでは意味がないだろう。この難関がまずある。それはこの2,3ヶ月で分かるだろう。正直、自分の提案は非常に合理的だと思うが、行政がからんでいることもあり、実際に何かを変えることができるのかは自信がない。

では漁師小屋のプロジェクトが2,3ケ月経ったあとも続けられる場合とそうでない場合を考えてみよう。
まずポジティブに上手くいった場合(土地利用の提案についてを想定/プレハブに屋根をかける建築はおそらくプロジェクトとしては個人レベルだろう)。おそらくもう僕個人ではどうにもできず、先生たちの力を借りながら実行していくべきだろう。土地や事業の仕組みをよく勉強し、リアリティをあげていく必要がある。より本格的に現地の意見をひろってまとめあげていく。しかるべき場所にしかるべきプレゼンをしていく必要がある。
この場合、やはり大学などに属し、様々な先生との接点を保ち続けた方がよいだろう。どこか関係のないところに努めた場合、自由に動くことが難しくなるからだ。
大学に属することを考えたとき、現在選択肢としてあるのは博士課程か研究生である。大学はやはり芸大か東北大だろう。東北大の博士課程の願書受付はもう間近であるのでおそらく難しい。芸大は夏に入試で来年入学になる。どちらにしろ、動きづらい。そこで有力なのは研究生であり、締め切りは2月である。しかし、現在と同じ環境で良いのかという懸念はある。情報伝達が遅いことは前から悩んでいたことであるし、芸大は建築家の研究室であるから、そのような土地所有などの行政がらみは得意でないかもしれない。

次に少しネガティブだが、漁師小屋のプロジェクトが上手くいかなかった場合を考えてみる。芸大にしろ東北大にしろ、研究生は1年間であるから、半年は違うことをすることになる。東北大にいる場合は雑務に追われることが予測される。住宅建設に関われるかもしれないことのみ利点だが、それもどれだけ貴重な経験だろうか。芸大にいる場合、おそらく小中学校が通ればその手伝い。その他こちらも雑務であろう。もし上手くつづかないのであれば、無理に研究生になる必要はないのかもしれない。それこそアトリエほど忙しくない場所なら片手間でやることもあり得るだろう。

ogtのプロジェクトをやめる場合。その理由としてあげられるものもある。
・どこかのアトリエにつとめ、忙しい場合
・そもそもogtプロジェクトの将来的な展開と自分の将来的展望を考慮したとき、異なることをした方がよいと判断した場合

とりあえずアトリエにすぐ務めることは考えていないので後者で考える。
ogtのプロジェクトを3年続けたわけだが、実はそれほど志願して続けていたわけではない。言い方は悪いが成り行きともいえる。その証拠にそれまでの自分の建築の考え方とは全く異なることに取り組んでいる感覚が常にあった。人の動きなど建築が発生する仕組み、コンテクスチャリズムに興味があることは、今までのと自分の作品とogtの活動を見たときに一貫して感じられることではある。しかし、明確に異なるのはプロジェクトがリアルな人を想像しているかそうではないかにある。リアルに人を想像し、その人たちがどのように使うかなどを相手の懐に入り込みながらつくることは価値がある。特に集落のような人の活動が歴史をつくってきたところはそうだ。設計は人が使うモノや環境をつくりだすことであると思うが、その使う人の価値観によりそうことは、建築でなくとも大事なことである。
一方でその他の僕の作品は一見実現不可能にみえる。人や人がつかうものに深く焦点を当てて入るが、実際につかうこと、つくることを僕以外の人は想像しにくい。自分の思想が強く、ボールを遠くに飛ばすようなものだ。

僕は建築を作品としてつくることに違和感がある。どんなに説明にこじつけをしようがエゴが入ってしまうのが建築であると思うが、それを個性のように主張する感覚が作品という言い方には感じられるからだ。人のお金で人が使うもの、町の人がみる物をつくるわけなのだから。(いわゆるデザインが苦手であることの裏返しでもある)

だからできるだけ客観的に設計していくことが好きなわけなのだが、その取り組み方に2つの性質があることに気付いた。

その2つの性質は見ようによっては対極にあり、それが自分の中の違和感につながっていると思う。つまり、人に寄り沿い、ときには自分のデザイナーとしてのプライドを捨てながら本当に求められているものをつくる、環境をつくるようなスタンスと、すぐには実現できなかったり使えなかったりするけど、環境の変化の予測に基づいたものをつくるスタンスである。(自分で書いてて後者の説得力がないがAAの教育などを想像してほしい)。

わかりやすくいうと、研究者か町医者かということだ。研究者は様々な実験や分析のもと、将来的に可能となるような新しいものをつくりだす。一方で町医者はその都度目の前にいる人に求められる要求に応えなくてはいけない。

なぜそのようなことを考えるかというとこれから建築家としてどのように生きていくのかということに大きく影響するからだ。

町医者的な建築家の立場は今後必要とされるだろうし、建築家の職能の広げ方として可能性があるように思う。一方で提案としては近視眼的であり、悪くいうと革新的なことは生まれにくい。何十年と仕事をしたあとにどんなことを思うだろうか。

一方で研究者的な建築家のあり方は職業としては厳しいが、夢があり、正直好きなのはそっちだ。ただ、共感はすぐには得られないかもしれない。

どちらもやって行くのがベストだろうが、ogtのプロジェクトでは後者はあまり得られそうではない。