2012年7月17日火曜日

ヴィッラ

ルネサンス期のヴィッラ・フィエゾレとマニエリスム期のヴィッラ・カステッロ、ヴィラ・ペトライア、ヴィッラ・プラトリーノ、ヴィッラ・ガンベライア、ヴィッラ・ポッジョ・ア・カイアーノ、ヴィッラ・アルティミーノ、ヴィッラ・イ・タッティを授業でやった。

ようは金持ちの別荘で金があまりあるメディチ家って人たちが思想家や建築家につくらして、色んな意図が組み込まれてるから貴重らしい。

そのお金持ちたちは都市の中にパラッツォていう住宅も持っていてヴィッラは週末過ごす別荘らしい。距離的には馬でいける5kmくらいのところの山地の斜面に建てるらしい。

ヴィッラ自体は、都市が周辺部への支配力を増し、田園を防御する必要がなくなった時であるらしい。ローマ時代の帝政期とルネサンス期15世紀以降。その間の中世はヴィラでなくて、カステッロ(居城)とボデーレ(農場)らしい。ヴィッラ・フィエゾレは急峻な斜面に建っているがこれはボデーレでは絶対にない。ヴィッラの位置は社会的、視覚的、気候的要因によって決定されていた。

ヴィッラからは基本フィレンツェのクーポラがみえる。しかし、必ずしもクーポラに向かう軸線に沿って建てられるのではなく、地形に沿って建てたうえで、クーポラの軸線をふまえる。パラッツォからもヴィッラがみえる関係がある。

ヴィッラは風景へ細心の配慮が払われている。邸宅さえも外の景色をどうみるかということに腐心していた。自然と正面から向き合っている。それもシークエンスで人が実際どういう風に訪れるかをしっかり設定している。

風景や庭について考えてみよう。

まず場所によって空間の見え方がある程度決まっている点。シークエンスを意識しているといよりもシークエンスを拘束しているともいえる。もっと細かく説明すると動線を拘束している。つまり、x-y軸の直線的な行動範囲を規定する。帯のような空間というか、動線空間がある。ヴィッラ・フィエゾレでは直線、ヴィッラ・プラトリーノは曲線。フィエゾレからプラトリーノはかなり変わっているが、その線的に行動範囲を縛るのは似ている。
縛るという言い方は良くないかもしれない。やんわりと規定する。だからフィレンツェ方向の軸をそれとなくいれることができる。自然ではありえない、彫刻的なトピアリーとまっすぐな道、幾何学的な植栽。そうすることで方向性ができ、よりフィレンツェの軸を際立たせることができる。フィエゾレでは。自然と人工のバランス。そして見え方を拘束する。風景がどこからでもみえるのではなく、そこからしかみえないという環境を作り出す。風景を所有するなんて、どれだけ贅沢なんだろう。風景は空間のレイヤーである。前景、中景、遠景があって初めて風景である。しかも単純な漠然とした風景、自然の風景でなく、都市を眺める風景であり、そこにクーポラがあることで風景の曖昧さを取り除き、細かな風景として見られる。
ヴィッラの建築家側は前景を用意し、あとは風景が独占できるように、指定した場所から見えるようにしむければ良いのである。そうするとクーポラの果たす役割や、その距離感はとても大事だ。馬でいける距離かつ、離れていながらもフィレンツェの都市を所有しているような感覚をもつような距離感が良い。

ヴィッラの各レイヤーやレイヤーを構成する要素に興味がある。

ヴィッラ内のレイヤーは幾何学的な比例原理に基づく手法にしたがってきっちりとつくられている。ヴィッラ・フィエゾレは奥行き方向が短く、その分コンタにそう方向が細長くなったのだろう。ヴィッラ・カステッロはそれに対して奥行き方向のほうが長く、各レイヤーの奥行き方向も長い。それゆえ段差でなく、斜面のまま整備された庭もある。ヴィッラ・カステッロの大きな特徴はエントランスが一番下からで庭園のレイヤーの最下部にある邸宅を糸杉の間から眺めてアクセスする点ではないだろうか。その邸宅の前には白鳥の湖ややり台がある。その邸宅内部を通り過ぎ(つまり門のように邸宅がある)、斜面庭、噴水とヴィーナス像を通りグロッタにいきつく。グロッタとは小石、石灰石などを丹念に張り付けた人工洞窟風の装飾の事でオルフェウスと異国の動物たちが中におかれいる。そしてその上のレベルまでのぼると眺望を楽しむテラス。森の中心には巨大なブロンズ像がおかれる。そして邸宅の屋根の向こうにカステッロの街並、その背後に、アルノ川の谷の全景がある。一連の空間を軸線上に配置した末に、最大のエレメントであるアルノ川の景色を加えた。フィエゾレと同様シークエンスを意識しているが、より多くのエレメントがシークエンスの中に配され、一連の独立した空間が軸線上に1つずつおかれている。グロッタや彫像、または庭園の誇張された遠近法はマニエリスム的といえる。


ヴィッラ・ペトライアの敷地にもともとカステッロが建ってた。糸杉によってフィルタリングされた道を抜けると一気に広がる二極性はマニエリスムの特徴である。邸宅は庭園内の最上部にあり、入り口は下の庭園にある。庭園は斜面にある。最も低いテラスは花が植えられた庭園、次に高いテラスとは邸宅の主軸線上の、左右から上る対象形の階段で結ばれる。そのテラスには魚の池、動物の形の生け垣がある。邸宅の建つ一番上のテラスへは、魚の池の東端という偏った位置にある階段を使わなくてはいけない。東対角線方向にフィレンツェがあるためで、望楼や彫刻がおかれ、非対称になっている。


ヴィラ・プラトリーノはメディチ家のブオタレンティがヴィラの邸宅と広大な庭園を設計したものである。このヴィラが位置する丘を擬人化してゲニウス・ロキ(地霊)を表した巨大なアペニーノの彫像がジャンボローニャによってつくられている。芸術家を招いて数多くのグロッタや噴水がつくられた。このヴィラはアペニン山脈の南の丘陵地にあり、ここから南方向へは、フィエゾレに至るまでの眺望が開けている。モンテーニュによれば、フランチェスコ1世はこの樹木のない山がちな土地を慎重に選び、彼の手になる傑作を自然に足して誇示した。ブオタレンティはヴィラ周辺のランドスケープを自然のアンフィテアトロ(円形闘技場)に見立てた。このヴィラは自動人形や水オルガンなど、自然に起こる場面をそのまま模倣し、人間の五感すべてに襲いかかるように設計されていた。このヴィラの豊かさの中に、すべての面からのマニエリスムが結実している。官能、動勢、曖昧、驚愕、想像のすべてが主役を演じている。また、軸性と迷路性も2つが別れて隣接しているのではなく、双方が二重性をもって織り込まれながら統合されている。この設計では人の移動が重要な条件となっている。訪問者を1つのアトラクションから次のそれへと動かしていく。他のマニエリスムのヴィラと比較すると、ここでは主軸線に沿った移動は他の小道と同程度にしか重要でない。この主軸線上の道の主な機能は、大きな秩序ある空間をつくり、邸宅の階段に立って敷地境界を見通す所有者に遥か彼方のフィレンツェの方向を示すことにあった。


ヴィッラ・ガンベライアはフィエゾレのヴィッラと似たような敷地に立つ。庭園は噴水と彫像で飾られると共に、邸宅と直交する位置に、グロッタと果樹園への入り口をもつ芝生の球技場がつくられた。フィエゾレもガンベライアもアクセスの道からは見えず、建物の中に入りテラスに立って初めて全景が眺められ、ランドスケープとの関係が明らかになるようにつくられている。ガンベライアの平面はスタンツァ(調節)のコンセプトに従って設計されている。庭園を構成する各部分は1つずつモチーフをもつ。テラスとグロッタからフィレンツェの全景が眺められる。邸宅内部の中庭はひとつの内なるロッジアとして捉えることができる。邸宅のロッジアはファサードの中心部ではなく、2階の角にある。対称性を崩すあつかいであるが、ここからの眺めでは、庭園を手前にしたランドスケープとフィレンツェとが1つにつながるものである。

ヴィッラ・ポッジョ・ア・カイアーノはカステッロの改築。防御システムは継承しつつ、容貌はポルティコをつけるなど優雅なヴィラ。敷地に壁がめぐり、4隅に監視塔をもつ。

ヴィッラ・アルティミーノは同様にカステッロの改築でポルティコがつけられている。

2012年7月15日日曜日

建築と装飾

重複が多いかもしれないが、装飾や様式について項目をあげて考えてみる。










・装飾とは(芸術か)

装飾とは建築のそとつらであり、建築のイメージとして語られる。それは二次元のイメージであり、三次元的な空間とは断絶しているようにも感じる。モノをおあつらえむきに着飾らせることが現在の僕の装飾の解釈である。建築はその空間の快適さ、利用しやすさなどで評価されることもあり、その軸には装飾はなかなか乗ってきづらい。



・装飾の対象

装飾の対象とは装飾になんらかのメッセージを込め、それを建築の表層にもちいることとする。何を持ってメッセージとするかは難しいところだが、ギリシア、ローマを美的規範からの装飾、外観であるとすると最初にメッセージが込められたのは、ロマネスク建築のバシリカ式が変容した多層で双塔を備えた西側のファサードを持つ教会堂が挙げられる。多層で双塔を持つことで象徴性を有したように思う。ただそれほど装飾的なファサードではない。だとすると装飾でメッセージ性をこめた明確な始まりはゴシック建築だろう。都市の中にたち、一般民衆を対象としたゴシックの大聖堂は、光を取り入れるため構造的合理性から生まれた線状要素を視覚的に造形し、開口部にはステンドグラス、西正面には大規模な彫刻やバラ窓で飾られ、双塔を備えた。建物の外観を見ただけでどんな建物か分かるほどの装飾性をもつ大聖堂は明らかに都市の一般民衆に向けた意図をもつものであった。ルネサンス建築から派生したマニエリスム建築は前者を美的規範にのっとったものとすると、古典古代の典範から恣意的に逸脱し、宮廷などのパトロンを喜ばす、対象を持ったものになったのではないか。ルネサンス建築においてもヨーロッパ各地に移植されたものは古典古代の再生という目標をもたない、より装飾の根拠をもたないものになったといえる。バロック建築はカトリック教会の民衆に対する説教とプロバガンダを目的としたものであり、明確な対象をもつ。折衷主義は様式を選択するというものであり、それぞれの意図に対して装飾として様式が選ばれる点で対象をもつ。
日本でも銀行は古典主義(ギリシア、ルネサンす)で大学はゴシックが多い。教会もゴシック教会であり、お化け屋敷もゴシックの住宅である。
ラスベガスに見られる装飾が外観に明確にみられる、またはサインが装飾的になるといったものも客という明確な対象がある装飾である。
総じて見ると、不特定多数の人々を対象とする装飾は宗教的な意味合いか経済的な意味合いが強いように思われる。




・装飾と年代

装飾はその建築がいつどこで建てられたか判断する基準となる。テストで建築の名前をあてる問題の場合、まずその建築の様式の特徴がどの様式にあてはまるか考える。だから建物名が分からなくてもある程度説明できたりする(笑)。これは西洋建築のみならず、日本建築においても同様で寝殿造りなのか書院造りなのかっていうのはパッとみれば分かる。



・様式と宗教上の理由


 宗教と様式は密接につながっている。313年にキリスト教が公認されて以来、その社会における宗教のありかたや宗教の意図によって建築は変容していく。
 初期キリスト教建築は外観を質素にふるまい、空間性で宗教性を演出する、バシリカ式や集中堂式が採用された。バシリカ式はキリスト教の宗教儀礼は一般信徒と司祭が参加する集会的形態であったので、宗教空間としては有効に機能したと推察されている。バシリカはキリスト教の儀礼空間としての必要性から採用されたというよりも、むしろ建設が容易で比較的自由に大きさを決めることができ、装飾によって神聖な空間を得やすく、儀礼空間として融通が利くという実際的な理由から大量生産されたと考えられている
 つづく東ローマのビザンティン建築は宗教空間としてより象徴性の高いドームを取り入れた。
 ロマネスク建築ではバシリカ式が変容し、多層で双塔を備えた複雑な構成の西構え、内陣下の地下祭室-クリュプタなどがみられる。西を正面にするやり方は初期のロマネスク様式からでカロリング朝フランク王国(現在のフランス)から始まっており、国王の席を西構えと呼ばれるツインタワー棟の2階に置き午後の礼拝で西日を背にして国王に後光が差しているように見える演出から始まったようだ。また、ロマネスクの教会は巡礼教会堂が注目され、身廊は横断アーチ付き、トンネル・ヴォールトで覆われ、交差ヴォールトのかかった側廊の上には1/4トンネルヴォールトの架かったトリビューン(二階廊)が乗り、内部立面は二層構成となる。聖遺物信仰や巡礼が盛んになって大量に訪れるようになった信者が、自由に堂内を巡り歩ける形式である。
 ゴシック建築は都市の中に建ち、様々なメッセージを発する大規模な彫刻やバラ窓で飾られた西正面、神の高みと神は光であるという教えを圧倒的な高さを誇る垂直性やステンドグラスによって達成する。ゴシック建築は、尖ったアーチ(尖頭アーチ)、飛び梁(フライング・バットレス)、リブ・ヴォールトなどの工学的要素がよく知られており、これらは19世紀のゴシック・リヴァイヴァルにおいて過大に評価されたため、あたかもそのような建築の技術的特徴のみがゴシック建築を定義づけると考えられがちである。しかし、ゴシック建築の本質は、これらのモティーフを含めた全体の美的効果のほうが重要で、ロマネスク建築が部分と部分の組み合わせで構成され、各部がはっきりと分されているのに対し、ゴシック建築では全体が一定のリズムで秩序づけられている。ゴシック建築の達成は、中世スコラ哲学の理念、つまり神を中心とした秩序を反映したことにあると言える。中世の人々にとっては事物の全てに象徴的な意味があり、故に、ゴシック教会を彩る様々な装飾は、聖職者たちの世界に対する理解そのものであった。彼らは、美を神の創造と同義であると考え、教会を装飾することを神への奉仕と捉えていた。従って、扉口のマリア像や聖ペテロ像、聖ニコラウス像、ステンドグラスに画かれたキリストの生涯といったものは、決して現代人の意味するところの「装飾」などではなく、石に刻まれた中世精神の表象なのである。
 一般にゴシック芸術と呼ばれているものに一貫して用いられる形態的、図像学的な特徴はなく、実際にはゴシックとは、芸術史家たちによって慣習的に使用される概念である。今日においても、ゴシック建築の定義づけが行われているが、その議論は多角的かつ複雑である。
客観的な、最も馴染み深い特徴は内部的な高さと細さの誇張であり、簡単に述べると、必要以上に細い柱、石造天井、およびそれらを為し得る構造的特徴の組み合わせとなる。具体的に述べれば交差リブヴォールトとヴォールトの横への応力を支持するための側壁または控壁(バットレス)だが、これらはそれぞれ東方に起原を持っている。尖頭アーチはササン朝ペルシャ帝国において既に用いられているし、控壁はビザンティン建築においても見られる主要構造である。実際、ゴシック建築に特有とされる特徴は、ほとんどの場合、ゴシック建築において独自に発明されたものではない。ゴシック建築において重要なのは、これら技術的特徴ではなく、それぞれを組み合わせた独自の美的感覚や空間性にあると言えよう。





・装飾と宗教

キリスト教が公認されて最初の建築様式である初期キリスト教建築は外観は質素、内部の空間構成もシンプルであった。バシリカ式はナルテクス(玄関廊)からアプシス(司祭席のついた半円形の突出部)までの直線的な空間の連続、集中堂式はドームの頂点へと向かう急進的な上昇感が特徴的であり、空間性によって宗教性を演出している。その後ロマネスク、ビザンティン、ゴシックにいたるまで空間性によって宗教性が演出されている。バロック建築はカトリック教会が禁欲的なプロテスタントに対抗して過剰なまでの装飾によって、人々を圧倒するような場をつくろうとした。しかし装飾によって熱血的な空間をつくってだけで、直接的なモチーフをもったわけではなく、偶像やキリストの像が建築にくっつくことはなかったようだ。

・様式の使い方

様式の用いられ方には2種類あると考えている。1つは古典建築を引用するものであり、もう1つはギリシア建築に建築の原型をみるロージエの理論から展開される理知主義的な古典建築の合理的な解釈である。前者はギリシアに対するローマ、ローマに対するロマネスク、ギリシアに対するグリーク・リヴァイヴァル、ゴシックにたいするゴシック・リヴァイヴァル、ルネサンスに対するマニエリスムなどがそうである。後者はギリシア、ローマに対するルネサンス、新古典主義などがそうではないだろうか。前者はさらに2つに分かれ、憧れを持って引用されるものと単なる選択肢として引用されるものがある。
理知主義的な古典建築の解釈はルネサンス時代に建築家を生み出したように、建築論として何が美しいのか、建築とは何かという純粋に本質にせまるものである。
憧れをもって引用されるとき、リヴァイヴァルやロマネスクのように、研究や合理的な解釈が伴うことが多い.グリーク、ゴシックともにその構造の明確性、合理性から引用された。一方でギリシアに対するローマや、ルネサンスに対するマニエリスムのように手法として単に引用されると非合理な装飾になってしまう。


・装飾の排除

「装飾と罪悪」でアドルフロースは装飾を批判し、装飾を排除していく方向性が打ち出される。どんな装飾が嫌われるかは時代と人によって異なる。ルネサンスは古典古代を継承するがゆえに中世の伝統との断絶としてゴシックを攻撃した。当時新しいものを悪として捉える傾向のあったイタリアは革新の欲望を古典古代の再生に向かわした。それが本質であったとするとゴシックの批判はただのひがみかもしれない。その点ブルネレスキは純粋な古代の再生ではなく、自らの構想を実現するためにその目的に応じて手法をしていたし、ドームはそもそもビザンティンの技術の影響があったと言われている。
グリーク・リヴァイヴァルでは古代ローマからルネサンスまで装飾的な要素として用いられたオーダーのあり方を否定し、オーダーは構造体であるのが本質であるとした。
また、近代だとモダニズムは装飾を否定した。


・装飾と表面
・装飾と技術


2012年7月14日土曜日

西洋建築史

いろいろ調べてみたので、簡単に概説してみます。

ギリシア建築は主にパルテノン神殿に代表されるように神の像を安置するための神の家であり、特別な場合をのぞいて中に入れない。したがってギリシア神殿は外から見ていかに美しいかということが問われ、外的な視覚性が建築の構成美の本質となる。ギリシア神殿は外観を形つくる重要な要素としての円柱の姿や配列によってその美しさを競った。神殿の断面構成は、基礎の上に載る基壇、その上に立つ円柱、屋根を支える水平梁(エンタブラチュア)、切妻屋根の三角破風(ペディメント)からなる。柱を含めた基壇から軒までの構成をオーダーという。ギリシア建築のオーダーは、ドリス式、イオニア式、コリント式の3種がある。オーダーは各柱頭デザインに特徴が顕著であるばかりでなく、オーダー全体の比例関係(プロポーション)が異なる。

ローマ建築は古代ギリシアの美的規範を継承し、その建築もオーダーが用いられる。加えてアーチ、ヴォールトといった構法を発展させ、巨大な建築をつくりだす。また、古代ローマでは、構造と仕上げは別物として考えられた。コンクリートを手に入れた古代ローマにおいては、構造体としてオーダーを用いる必要はなく、構造体を仕上げる装飾的要素としてオーダーを用いた。皇帝の政治的意図や帝国と皇帝の権威を誇示するために大規模な公共施設をつくる。

初期キリスト教建築はキリスト教を公認したコンスタンティヌス帝によってキリスト教のための建築をつくる。教会は2つの基本形式をもつ。バシリカ式は古代ローマにおいて、裁判や商取引などの集会のための建築形式であった。外観は質素で内部空間が重要視され、アトリウムからアプシスまでの軸線が大切な特質である。死者のため墓廟は古来、円形や八角形、あるいは正方形といった平面の建物が多く、キリスト教も、死者をまつる建築として中心点の存在する建築様式を採用した。集中堂式も外観は質素で、円形や正多角形の中央の空間にはドームがかかり、堂の頂点へ向かう求心的な上昇感が本質である。

ビザンティン建築は東西に分裂し、独立した東ローマ帝国が、周辺のギリシア文化に影響をうけ、徐々に独自の建築文化を形成していく。ハギア・ソフィア大聖堂では集中堂式とバシリカ式の融合が見られ、身廊の中央に巨大なドームを載せている。箱形空間の上にドームを乗せるという建築課題は、正方形の平面の上に円形の基礎を持つドームをかけるという技術的問題を含んでいる。正方形の四隅に火打ち梁(スクィンチ)をかけて、全体を八角形にしてドームをかける方法やトロンプを持ちいる方法、ペンデンティブを用いる方法などが開発された。

ロマネスク建築は西ローマ帝国を滅ぼしたゲルマン民族が、キリスト教とローマ帝国再建の理想をもち、西ヨーロッパの大部分を統一したカール大帝の時代に建てられた。ヴォールトを導入し、空間の質に腐心し、宗教的メッセージを込め、特にバシリカ式教会堂が大きく変わる。アーヘンの宮廷礼拝堂はサン・ヴィターレ教会堂を模したローマへの憧れと重厚な記念碑性をみせる。この時代、宗教・政治・生産・学問の拠点として修道院が多く建てられ、修道院内に建つ教会堂はバシリカ式が主流になる。多層で双塔を供えた複雑な構成の西端部-西構えや、内陣下の地下祭室-クリュプタなどが加えられ、バシリカが変容する。また、それまで木造小屋組であったバシリカ式教会堂の天井の全体が石造のヴォールトで覆われるようになる。身廊のヴォールトの推力に側廊で抵抗し、最終的には側廊の外壁で支えたため、ロマネスク教会堂の建築は外壁が厚い。身廊のヴォールトの推力の支持の仕方は身廊の立面構成と連動し、二層構成、三層構成など、身廊立面が組織化された。

ゴシック建築は都市の中に建てられる。フランスでは、国王の後ろ盾を得て、都市に建つ一般民衆のための宗教建築-大聖堂が次々と建てられた。それまでのロマネスクとは全く異なった、光に満ちた、圧倒的な高さを誇る全く新しい建築様式だった。大聖堂の西正面も、様々なメッセージを発する大規模な彫刻やバラ窓で飾られ、双塔を備えて都市の力をアピールする。圧倒的な高さを誇る垂直性やステンドグラスを通して堂内を明るく照らす豊かな光も、都市の一般民衆に、神の高みと神は光であるという教えを感覚的に伝える要素であった。ロマネスク建築が既に発明した技術から、尖塔アーチ、交差リブ・ヴォールト、飛梁を選び取り、光を合理的に取り入れるため、ロマネスクとは全く異なる骨組み構造を実現した。建物に加わるすべての力は、リブ、柱といった線状要素が伝達し、建物の外の飛梁、控え壁へと伝えられる。線状要素は視覚的に造形され、線状要素以外は開口部となった。こうした建築が可能になった背景には、経済的発展、技術革新があった。特に建設機器、資材運搬法は飛躍的に発展した。

ルネサンス建築は15世紀のフィレンツェでメディチ家などの富裕な商人をパトロンとし、古代の「再生」を目的として始まる。ブルネレスキはフィレンツェの大ドームにおいて、古代建築の研究を通じた独創的な解放を提示した。孤児養育院、サント・スピリト教会にみられるように古代の建築言語の正確な際せとよべるものではないが、オーダーを意識した構成であることに変わりない。さらに、サント・スピリトでは、正方形を単位とした単純な幾何学的構成による平面と、一定間隔に配された柱の規則性によって透視図法の効果が増幅されている。このように比例原理に基づく様式であった。また、アルベルティによって「建築論」に代表される建築書が描かれ、建築家の自我の成熟が見られる。その後ルネサンス建築は舞台をローマへと移し、教皇という「権力」を新しいパトロンとした。それまで以上に「力」の表現が求められ、より正確な古典古代の建築言語を獲得していく。ブラマンテによるテンピエットは古典様式の理想が凝縮された、盛期ルネサンス建築の完成系の1つである。ブラマンテの時代に古典主義建築の典範が完成された。つづく世代はこの様式と手法(マニエラ)を学び、それを積極的、あるいは批判的に自らの作品に取り入れた。イタリアの都市国家が衰退していく中で、当初の理念は失われ、その手法(マニエラ)がひとり歩きして奇抜な建築・美術が生まれていきました。そのようなルネサンス末期の動きをマニエリスムと呼びます。マニエラ(手法)はマンネリの語源であり、マニエリスムはマンネリズムのことである。マニエリスムの建築は、ルネサンスのようにきっちりと古代ローマを規範とせずに、その要素、手法を変形、組合せ、操作、引用などの技法で逸脱し、ある意味では発展させたものといえる。このことは、現代建築でのポスト・モダンの動きによく似ているといえる。


バロック建築は宗教改革後、腐敗を糾弾されたカトリック教会も、対抗宗教改革とよばれる内部刷新を試み、芸術を通じて民衆に対する説教とプロバガンダを成し遂げようとする。建築はその舞台となる。ルネサンス建築の静的な秩序や均衡を第一とするその姿勢と対象をなす。建築家は教会と絶対君主を最大のパトロンとし、その威光を民衆にプロバガンダすることを目的とした教会堂や王宮の造営に従事する。より感情に直裁に訴えかける装置として建築を機能させるべく、官能的な曲線や装飾に加え、陰影の操作、透視図法的錯覚や古典的モティーフの変則的用法といった技巧を駆使し、幻想性を演出した。

2012年7月11日水曜日

ヴィラ

ヴィラまたはヴィッラ(villa)は、本来は上流階級カントリー・ハウスを意味し、古代ローマが起源だが、ヴィラの概念と機能は時代と共に発展してきた。共和政ローマが終焉を迎えるとヴィラは小さな要塞化された農場の複合家屋となっていったが、中世を通して徐々に再発展し、贅沢な上流階級のカントリー・ハウスとなっていった。現代では、特定の種類の一戸建て郊外住宅を指す。(wikipediaより)


メディチ家はフィレンツェ共和国時代とトスカーナ大公国時代を通して18のヴィラを建設した。古代世界ではすでに、多忙な都市の存在と田園における休息の存在を交互に使い分けていた。アルベルティは「建築論」の中で、ヴィラの理想的な位置は遠すぎず近すぎず(馬の時代)丘や平野のみならず、自分の都市が眺められる地点が良いと記している。ヴィラにおける田園生活の享受は、都市との関係の中でとりおこなわれていた。ヴィラが形成させる可能性は、都市が周辺部への支配力を増し、田園防御する必要がなくなった時である。ローマ時代の帝政期とルネサンス期15世紀以降で、その間の中世はヴィラではなく、カステッロ(居城)とポデーレ(農場)しかない。15世紀のフィレンツェ周辺では、メディチ家が古代のヴィッレッジャトゥーラの理想を復興させる言動力となった。アルノ川の両岸を中心に古代のヴィラ・ルスティカ(田園生活)を実現させた。


メディチ家が本格的なヴィラ建設を開始したのは、コジモ・イル・ヴェッキオ(1389-1464)の時代である。初期は14世紀に存続していたカステッロを改築したものであったが、その後ミケロッツォによるフィエゾレのヴィラで改築型を脱する。それは、田園生活の文化的理想が、既存の貸すテッロや農家といった伝統的文脈から切り離され、独立した建築形態として進化を遂げた最初のヴィラだった。


フィエゾレのヴィラはアルノ川から約250mの高さ、フィレンツェの中心から約5kmの距離にある。起伏のある敷地の南面は急峻な崖をつくり、ファサードはそれに抗してテラス上に力強く立ち上がる。ヴィラは南側の斜面にあるため、冬期の北東からの冷風から護られている。夏期には西側から海風が運ばれ冷気をもたらす。建物は自然の地形に沿って並び、東側の眺めは閉じられてムニョーネ川の谷の方にむき、そのはるか彼方にアルノ川の谷を望む。建物全体がバルコニーのように配置され、南にアルノの谷、西端にフィレンツェを見渡すことができる。ヴィラは3つのレベルからなる。北側テラス、建物のレベル、南側テラスの3つである。北と南の高低差は11~12mで、その間はパーゴラが載った重厚な壁体で支えられている。南側のテラスは行ったり来たりすることができない。曲がりくねる外の小道を通らない限り、この2つのテラスは邸宅内部だけを通して連結されている。


このようにフィエゾレのヴィラでは厳密に動線が導かれている。各場所にみてほしい方角、景色が決まっており、シークエンスの設計が細かくなされている。みられるものについては幾何学にもとづいたシンメトリーなどが特徴としてみられる。平面形もある単位の倍数でつくられる。幾何学的整合性をとるために窓のない場所にそこから見えるはずである絵を描くなどの手法もみられる。フィエゾレのヴィラはフィレンツェを望む方向と直角方向に重ねられた断面差をもつレイヤーに動線を通し、時折、フィレンツェ方向に視界を広げるという特徴がある。


ヴィラ・カステッロではヴィラ・フィエゾレと同様にフィレンツェを眺める方向ち直行にレイヤーを重ねている。フィエゾレと異なるのはレイヤーの数が増えたこと、斜面が取り入れられたこと、レイヤーに平行方向の動線の距離が短くなったこと、そしてレイヤーの一番下に建物が入ったことである。また、庭園は美術品で装飾され、数多くの新しい彫刻や人工物が自然から喚起されて付加された。ヴィラ・カステッロはフィレンツェの領域で初めてマニエリスムのヴィラであり、一連の独立した空間が軸線上におかれ、ルートがそれぞれを結んでいる。


ヴィラ・ペトライアはカステッロを作り替えたものである。邸宅中央の塔は望楼に改築され、ほぼ正方形の平面をもつ邸宅の中にはアトリウムがある。庭園は丘のやや急な斜面にあり、3つのテラスに分けられている。ヴィラ・カステッロとは対照的に、テラスは邸宅前方の低い位置にあるため、庭園を前景として邸宅がそびえ立つ。最も低い位置にあるテラスは丘の斜面に沿って大きく広がり、花が植えられた庭園をつくっている。一番下のテラスに植えられた背の高い樹木のスクリーンが主軸線方向の眺めを妨げているため、対角線方向のフィレンツェの眺めは一層強調されている。フィレンツェの眺望を強調することにより、主軸線による全体構成に非対称性を与えた。


ヴィラ・プラトリーノはブオタレンティによって広大な庭園とともにつくられた。このヴィラが位置する丘を擬人化してゲニウス・ロキを表した巨大なアペニーノの彫像がジャンボローニャによってつくられている。芸術家を招いて数多くのグロッタや噴水がつくられた。


自然との調和は数多くのランドスケープの場面に示されている。このヴィラにおいては、模倣は「自然」の象徴的な表現であるよりはむしろ、自然に起こる場面をそのまままねている。


邸宅の主軸線上に、南面の並木道に沿って小さな噴水が連続してつくられ、その水煙に虹が輝く時は、後方の邸宅を七色の光で包み込んだ。数多くの仕掛けが庭園のさまざまな場所で音楽や音を奏でた。モンテーニュによれば、人間の五感すべてに襲いかかるように設計されていた。このヴィラの豊かさの中に、すべての面からのマニエリスムが結実している。官能、動勢、曖昧、驚愕、想像のすべてが主役を演じている。


この設計では人の移動が重要な条件となっている。それはカスケードや噴水での水の流れに似て、訪問者を1つのアトラクションから次のそれへと動かしていく。他のマニエリスムのヴィラと比較すると、ここでは主軸線に沿った移動は他の小道と同程度にしか重要でない。それは単なる全体のルートの中の直線道に過ぎないのである。この主軸線上の道の主な機能は、大きな秩序ある空間をつくり、邸宅の階段に立って敷地境界を見通す所有者にはるか彼方のフォレンツェの方向を示すことにあった。





2012年7月10日火曜日

ルネサンス建築と現代の建築について

建築はその時代の背景や前の時代の流れに大きく影響を受ける。ルネサンス建築期はそういった意味で様々な変革や新しいものが生まれた。

ゴシック期まで建築は修道院や聖堂建築がほとんどであったがパラッツォやヴィッラと呼ばれる邸宅に代表されるように俗の世界に建築が降りてきた。

1348年ペストの大流行によって人工の2/3のがなくなったフィレンツェでは都市のために団結する共通意識が生まれ、裕福な商人が都市に対して投資をしたという考え方があるが実際は商人が生前にキリスト教をおかした免罪符として投資していたという事実もあるらしい。ともかく豊富な資金がそこにはあり、経済発展していたのだ。

もう1つはイタリアの周辺国を中心に発展した全く新しい様式であるゴシック様式、イタリア内で変革を求めながらも当時の風潮として新しいものは望ましくないとされていたこともルネサンス誕生を促した。フライングバットレスのような内部の開放的な空間をつくるために外に力を流し、それを形態としてみせたゴシックがオーダーなどの単純な構造要素と比べて邪道にみえたのか。ともかく、建物の本質、建物が芸術であった古代ギリシャ、ローマへの回帰はなんとなく分かる。

そのような背景からルネサンス建築はつくられていく。
そしてルネサンス期の一番大きな変革を僕は建築家の誕生だと考えている。それまでは石工親方でしかなかったが、ブルネレスキ、ミケロッツォ、アルベルティらによって建築家という立場が確立されていく。

まずブルネレスキは金銀細工師として修行を積んだあと、フィレンツェのクーポラの設計において建設法、建築機械の考案、そして建設現場の組織化を図る。建設のタクトをより俯瞰した位置からとり始めた。

ミケロッツォは生涯で100以上の建築に関わる。彼は彫刻師として活躍したあと、自らの手でじっくりと自分が組織した職人達を育成した。それによって彼は建設工事の幅広い監理を避けて、建築の設計者として数多くの仕事をこなそうとする姿勢を保ち続けることができた。図面や模型、あるいは簡単な指示だけで自分の意のままに動かすことのできる建設工房を組織していたのである。工務店のボスみたいな感じである。

そしてアルベルティはルネサンス期の万能人であり、彼の数々の理論にて後世に大きな影響を残した。「建築論」には理想の建築家像が明記された。

「賞賛すべき確かな理論的方法と手順とで、知的に精神的に決定し、作品を実施し、いかなるものであれ、重量の移行と物体の結合、組織を通じて、それを人間の最も権威のある用途に見事に献げることを心得た人」


ルネサンス期はこのように現代でいわれる「建築家」が誕生した時代であった。
また、建築において議論される内容もかなり現代に近くなる。

フィレンツェの大聖堂の大ドームをつくったブルネレスキは古典的な言語の再生、オーダーと比例原理に基づく様式だけでなく、それまでの歴史(ビザンティンの科学技術)などを統合して生み出した。つまり単純な様式史で語ることのできる範囲を超え、自らの構想を実現するためにその目的に応じて選択していたのである。この変化の背景には建築がより都市や俗世界に近づいたことも影響していると考察する。サント・スピリト協会でも正方形を単位とした単純な幾何学構成によって平面が支配されるとともに、一定間隔に配された柱の規則性によって透視図法の効果が増幅されている。

ヴィッラにおいても幾何学的整合性が重要視され、ときには偽りのファサードさえも用意する。

古いものへの回帰といえばポストモダンが思い浮かぶ。近代建築によって切り捨てられた「歴史性」「装飾」「地域性」などが復権を遂げた。チャールズ・ジェンクスは「ポストモダンの建築言語」で近代建築の死を宣告した。死因は機能主義の一元的システム、そのハイカルチャー性、つまり形骸化・制度化してしまった近代建築のコミュニケーション不全、あるいは断絶にあったとの批判的分析をした。

ポストモダンはについては、「ハイブリッド」「二重コード化」「多様性」が特徴で。「歴史主義」「直進的復古主義」「ネオ・バナキュラー」「コンテクスチャリズム」「折衷主義」「アーバニスト・アドホック」などのデザイン特質があるとした。

ルネッサンスは徐々に古典的な言語が政治的理由によって使われはじめ、古典的言語を装飾的に力の象徴として利用していった点で、本来の意味を忘れて反復されたポストモダンと似たような点があるように思うが、ブルネレスキが、ロマネスク建築のように古典的言語を単に利用しただけでなく、ローマ建築の構造を研究し、これに数学的比例を組み合わせ、学術的なアプローチをとったように、模倣者ではなく、知的・文化的価値の創造者としてルネサンス建築をつくった点は古き良き時代への回帰だけでなく、ゴシック末期の過渡な装飾、中世的都市空間に対する批評を人体の比例に基づくといわれるオーダーを用いてより幾何学的に数学的美しさを体現することで示していた。


このことは単純な美しさの追求から政治的権力の象徴としての目的の変化が「古典の模倣=ルネサンス」という誤解を一般化させてしまったことを意味している。


建築学として理想が示された、知的・文化的アプローチから建築が考えられたという点で建築家の誕生、建築論の誕生を指摘することができる。建築と権力は密接に関係していてヒトラーとシュペーアもそうである。政治性や経済性がからむと安直な装飾論に陥ることはよくある。

2012年7月9日月曜日

ルネサンス建築

ルネサンス建築は15世紀のフィレンツェで、メディチ家に代表される富裕な商人たちがパトロンとなり、かつて頂点を極めた古代の「再生」を通じて成し遂げられる。

■16世紀半ば画家=歴史家のジョルジュ・ヴァザーリは「ギリシャ様式」と呼ぶビザンティン美術や「ドイツ様式」と呼ぶゴシック美術に対して軽蔑的な言葉を吐いている。

このような過去の様式に対する軽蔑的な態度をルネサンス期のイタリア人がしたのは、1つにはイタリアの芸術家たちがフランスやドイツ、イギリスの芸術家たちほどゴシック様式と密接に結びついていなかったためであったことを示唆している。革新はそれ以前に優勢を占めていた伝統が他の地域ほど深く浸透していなかった地域においてしばしば起こる。

ルネサンス期のイタリア人は伝統への敬意を全く失ったわけではなく、彼らが行ったことは、近い伝統をより古い伝統の名において拒絶することだった。15世紀の建築家アントニオ・フィラレーテは常にある種悪しき習慣が確立される以前の「古き良き時代」に戻るべきだと主張した。

もう1つの逆説は、イタリアの文化が革新の傾向を強く帯びていたこの時代に、革新ということ自体が一般的に悪とされていたことである。フィレンツェの政治的論争の中では「新しいやり方」が望ましくないものであることは当然のこととされ、「あらゆる変革はフィレンツェの評判を落とす」とされた。グィッチャルディーニは「変化」という言葉は非難の意味を込めて使われているように思える。

■ルネサンス建築はある一時代の人のものの見方・考え方を根本的に規定している枠組みとしての認識の体系様式史の限界も示すことになる。

■またルネサンス期には様々な位相の変化があった。人と神との関係の変質、自我の形成、新たな世界の発見。過去に対する認識、時間的距離の認識。修道院改革、都市にたつ托鉢修道会。都市の復活と経済繁栄。都市国家と商人階級。

■過去の咀嚼とアイデンティティの確立
古代ローマの復興、古代ギリシャ研究熱とコンスタンティノープルの陥落、初期キリスト教時代の精神の復活、ビザンティンの科学技術導入、ゴシックの拒絶と温存。

■建築における変化
建築家の台頭:修道院から世俗へ。構造表現の明示。粗石積み。遠近法。明暗法。
イタリアとドイツ系の研究者は、ブルネレスキの様式を古代ローマ、あるいはロマネスク起源と考え、アングロ・アメリカン系の学者は、それに異議を唱える。しかし、問題はそれがローマ起源かどうかだけではない。ブルネレスキが古代ローマの建築要素を援用した場合においても何をどのような目的で用いたのかが重要である。

2012年7月8日日曜日

建築の解体

・○○のためだけのまち。
・現代のアーキグラム
・建築の可能性を拡張し、実際の建築も他から獲得した新たな建築の価値観でつくられる
・ひっかかるもの(気持ち悪いもの、分かりやすいもの)
・タナトスとエロス
・遠いものはゆっくり動く

建築家

理論と実践の間のギャップはその建築家がより建築を頻繁につくればつくるほど起こりうると思う。ここでいう理論はどちらかというと教科書にでてくるようなマニフェストのような理論ではないかと考えている。

マニフェストをもつということは怪しいことでそれが作品の事後的に生まれてくるものならいいけど、それが先行してしまうと説得力がなくなる。

建築家は場をまとめる、効率的に進める力が必要とされるが、それは一方で理論をおろそかにすると思う。理論はある仮定をたてて実証していくが、より実践的な建築家は仮定などしない。環境を深く読み取り、現実的な問題に対してのみ向き合い、統合する。

物理学のように研究ではある仮定をし、それを実証していくという流れであり、数学はその逆で帰納法的に観察から理論を構築していく。

建築家にはその両方の考え方が必要で、その棲み分けを意識し、自分が今何をしているかしっかり自覚しないといけないのではないか。

どちらがいいというわけではなく、他方が存在することを意識することを忘れるとどんどんある種のクリエイティブさは失われていく。

そんなのいわれなくても分かるという人は多いと思うが、その線引き、バランスをしっかり意識してる人は実は少ないんじゃないか。

僕は今の環境は数学に近いと考えているが、それによって自分がどんなバランスで考えてきたか分かってきた。そしてどんなスタンスで自分がやりたいのかも客観的におぼろげながら分かってきた。それが目指すべき目標かどうかはまだわからない。

アートは自然にやりだすものだって聞いたけど、それって究極の仮定なんじゃないか。
自分はもう少し数学に近いところにいる。

2012年7月3日火曜日

うげ

ちからがでない。
A4一枚ですら書く気にならない。

忙しいけど楽しいか暇だけどつまらないって天と地ほど差がある。

1人はつかれたなー。びっくりするほどやる気でない。

こっちきてから自分の意志で遊んだり、飲んだりしたことあったかな。
ないな。

色んな人に申し訳ないけど素直に考えると今の環境はなんかやっぱり違う気がする。勉強になっている点はあるけど。なんもわくわくしない。


自分の仕事だと、責任を持って言えないや。


今年はだらだら考えよう。自分のペース見失うとダメになる。