2012年7月9日月曜日

ルネサンス建築

ルネサンス建築は15世紀のフィレンツェで、メディチ家に代表される富裕な商人たちがパトロンとなり、かつて頂点を極めた古代の「再生」を通じて成し遂げられる。

■16世紀半ば画家=歴史家のジョルジュ・ヴァザーリは「ギリシャ様式」と呼ぶビザンティン美術や「ドイツ様式」と呼ぶゴシック美術に対して軽蔑的な言葉を吐いている。

このような過去の様式に対する軽蔑的な態度をルネサンス期のイタリア人がしたのは、1つにはイタリアの芸術家たちがフランスやドイツ、イギリスの芸術家たちほどゴシック様式と密接に結びついていなかったためであったことを示唆している。革新はそれ以前に優勢を占めていた伝統が他の地域ほど深く浸透していなかった地域においてしばしば起こる。

ルネサンス期のイタリア人は伝統への敬意を全く失ったわけではなく、彼らが行ったことは、近い伝統をより古い伝統の名において拒絶することだった。15世紀の建築家アントニオ・フィラレーテは常にある種悪しき習慣が確立される以前の「古き良き時代」に戻るべきだと主張した。

もう1つの逆説は、イタリアの文化が革新の傾向を強く帯びていたこの時代に、革新ということ自体が一般的に悪とされていたことである。フィレンツェの政治的論争の中では「新しいやり方」が望ましくないものであることは当然のこととされ、「あらゆる変革はフィレンツェの評判を落とす」とされた。グィッチャルディーニは「変化」という言葉は非難の意味を込めて使われているように思える。

■ルネサンス建築はある一時代の人のものの見方・考え方を根本的に規定している枠組みとしての認識の体系様式史の限界も示すことになる。

■またルネサンス期には様々な位相の変化があった。人と神との関係の変質、自我の形成、新たな世界の発見。過去に対する認識、時間的距離の認識。修道院改革、都市にたつ托鉢修道会。都市の復活と経済繁栄。都市国家と商人階級。

■過去の咀嚼とアイデンティティの確立
古代ローマの復興、古代ギリシャ研究熱とコンスタンティノープルの陥落、初期キリスト教時代の精神の復活、ビザンティンの科学技術導入、ゴシックの拒絶と温存。

■建築における変化
建築家の台頭:修道院から世俗へ。構造表現の明示。粗石積み。遠近法。明暗法。
イタリアとドイツ系の研究者は、ブルネレスキの様式を古代ローマ、あるいはロマネスク起源と考え、アングロ・アメリカン系の学者は、それに異議を唱える。しかし、問題はそれがローマ起源かどうかだけではない。ブルネレスキが古代ローマの建築要素を援用した場合においても何をどのような目的で用いたのかが重要である。

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