ギリシア建築は主にパルテノン神殿に代表されるように神の像を安置するための神の家であり、特別な場合をのぞいて中に入れない。したがってギリシア神殿は外から見ていかに美しいかということが問われ、外的な視覚性が建築の構成美の本質となる。ギリシア神殿は外観を形つくる重要な要素としての円柱の姿や配列によってその美しさを競った。神殿の断面構成は、基礎の上に載る基壇、その上に立つ円柱、屋根を支える水平梁(エンタブラチュア)、切妻屋根の三角破風(ペディメント)からなる。柱を含めた基壇から軒までの構成をオーダーという。ギリシア建築のオーダーは、ドリス式、イオニア式、コリント式の3種がある。オーダーは各柱頭デザインに特徴が顕著であるばかりでなく、オーダー全体の比例関係(プロポーション)が異なる。
ローマ建築は古代ギリシアの美的規範を継承し、その建築もオーダーが用いられる。加えてアーチ、ヴォールトといった構法を発展させ、巨大な建築をつくりだす。また、古代ローマでは、構造と仕上げは別物として考えられた。コンクリートを手に入れた古代ローマにおいては、構造体としてオーダーを用いる必要はなく、構造体を仕上げる装飾的要素としてオーダーを用いた。皇帝の政治的意図や帝国と皇帝の権威を誇示するために大規模な公共施設をつくる。
初期キリスト教建築はキリスト教を公認したコンスタンティヌス帝によってキリスト教のための建築をつくる。教会は2つの基本形式をもつ。バシリカ式は古代ローマにおいて、裁判や商取引などの集会のための建築形式であった。外観は質素で内部空間が重要視され、アトリウムからアプシスまでの軸線が大切な特質である。死者のため墓廟は古来、円形や八角形、あるいは正方形といった平面の建物が多く、キリスト教も、死者をまつる建築として中心点の存在する建築様式を採用した。集中堂式も外観は質素で、円形や正多角形の中央の空間にはドームがかかり、堂の頂点へ向かう求心的な上昇感が本質である。
ビザンティン建築は東西に分裂し、独立した東ローマ帝国が、周辺のギリシア文化に影響をうけ、徐々に独自の建築文化を形成していく。ハギア・ソフィア大聖堂では集中堂式とバシリカ式の融合が見られ、身廊の中央に巨大なドームを載せている。箱形空間の上にドームを乗せるという建築課題は、正方形の平面の上に円形の基礎を持つドームをかけるという技術的問題を含んでいる。正方形の四隅に火打ち梁(スクィンチ)をかけて、全体を八角形にしてドームをかける方法やトロンプを持ちいる方法、ペンデンティブを用いる方法などが開発された。
ロマネスク建築は西ローマ帝国を滅ぼしたゲルマン民族が、キリスト教とローマ帝国再建の理想をもち、西ヨーロッパの大部分を統一したカール大帝の時代に建てられた。ヴォールトを導入し、空間の質に腐心し、宗教的メッセージを込め、特にバシリカ式教会堂が大きく変わる。アーヘンの宮廷礼拝堂はサン・ヴィターレ教会堂を模したローマへの憧れと重厚な記念碑性をみせる。この時代、宗教・政治・生産・学問の拠点として修道院が多く建てられ、修道院内に建つ教会堂はバシリカ式が主流になる。多層で双塔を供えた複雑な構成の西端部-西構えや、内陣下の地下祭室-クリュプタなどが加えられ、バシリカが変容する。また、それまで木造小屋組であったバシリカ式教会堂の天井の全体が石造のヴォールトで覆われるようになる。身廊のヴォールトの推力に側廊で抵抗し、最終的には側廊の外壁で支えたため、ロマネスク教会堂の建築は外壁が厚い。身廊のヴォールトの推力の支持の仕方は身廊の立面構成と連動し、二層構成、三層構成など、身廊立面が組織化された。
ゴシック建築は都市の中に建てられる。フランスでは、国王の後ろ盾を得て、都市に建つ一般民衆のための宗教建築-大聖堂が次々と建てられた。それまでのロマネスクとは全く異なった、光に満ちた、圧倒的な高さを誇る全く新しい建築様式だった。大聖堂の西正面も、様々なメッセージを発する大規模な彫刻やバラ窓で飾られ、双塔を備えて都市の力をアピールする。圧倒的な高さを誇る垂直性やステンドグラスを通して堂内を明るく照らす豊かな光も、都市の一般民衆に、神の高みと神は光であるという教えを感覚的に伝える要素であった。ロマネスク建築が既に発明した技術から、尖塔アーチ、交差リブ・ヴォールト、飛梁を選び取り、光を合理的に取り入れるため、ロマネスクとは全く異なる骨組み構造を実現した。建物に加わるすべての力は、リブ、柱といった線状要素が伝達し、建物の外の飛梁、控え壁へと伝えられる。線状要素は視覚的に造形され、線状要素以外は開口部となった。こうした建築が可能になった背景には、経済的発展、技術革新があった。特に建設機器、資材運搬法は飛躍的に発展した。
ルネサンス建築は15世紀のフィレンツェでメディチ家などの富裕な商人をパトロンとし、古代の「再生」を目的として始まる。ブルネレスキはフィレンツェの大ドームにおいて、古代建築の研究を通じた独創的な解放を提示した。孤児養育院、サント・スピリト教会にみられるように古代の建築言語の正確な際せとよべるものではないが、オーダーを意識した構成であることに変わりない。さらに、サント・スピリトでは、正方形を単位とした単純な幾何学的構成による平面と、一定間隔に配された柱の規則性によって透視図法の効果が増幅されている。このように比例原理に基づく様式であった。また、アルベルティによって「建築論」に代表される建築書が描かれ、建築家の自我の成熟が見られる。その後ルネサンス建築は舞台をローマへと移し、教皇という「権力」を新しいパトロンとした。それまで以上に「力」の表現が求められ、より正確な古典古代の建築言語を獲得していく。ブラマンテによるテンピエットは古典様式の理想が凝縮された、盛期ルネサンス建築の完成系の1つである。ブラマンテの時代に古典主義建築の典範が完成された。つづく世代はこの様式と手法(マニエラ)を学び、それを積極的、あるいは批判的に自らの作品に取り入れた。イタリアの都市国家が衰退していく中で、当初の理念は失われ、その手法(マニエラ)がひとり歩きして奇抜な建築・美術が生まれていきました。そのようなルネサンス末期の動きをマニエリスムと呼びます。マニエラ(手法)はマンネリの語源であり、マニエリスムはマンネリズムのことである。マニエリスムの建築は、ルネサンスのようにきっちりと古代ローマを規範とせずに、その要素、手法を変形、組合せ、操作、引用などの技法で逸脱し、ある意味では発展させたものといえる。このことは、現代建築でのポスト・モダンの動きによく似ているといえる。
バロック建築は宗教改革後、腐敗を糾弾されたカトリック教会も、対抗宗教改革とよばれる内部刷新を試み、芸術を通じて民衆に対する説教とプロバガンダを成し遂げようとする。建築はその舞台となる。ルネサンス建築の静的な秩序や均衡を第一とするその姿勢と対象をなす。建築家は教会と絶対君主を最大のパトロンとし、その威光を民衆にプロバガンダすることを目的とした教会堂や王宮の造営に従事する。より感情に直裁に訴えかける装置として建築を機能させるべく、官能的な曲線や装飾に加え、陰影の操作、透視図法的錯覚や古典的モティーフの変則的用法といった技巧を駆使し、幻想性を演出した。
ロマネスク建築は西ローマ帝国を滅ぼしたゲルマン民族が、キリスト教とローマ帝国再建の理想をもち、西ヨーロッパの大部分を統一したカール大帝の時代に建てられた。ヴォールトを導入し、空間の質に腐心し、宗教的メッセージを込め、特にバシリカ式教会堂が大きく変わる。アーヘンの宮廷礼拝堂はサン・ヴィターレ教会堂を模したローマへの憧れと重厚な記念碑性をみせる。この時代、宗教・政治・生産・学問の拠点として修道院が多く建てられ、修道院内に建つ教会堂はバシリカ式が主流になる。多層で双塔を供えた複雑な構成の西端部-西構えや、内陣下の地下祭室-クリュプタなどが加えられ、バシリカが変容する。また、それまで木造小屋組であったバシリカ式教会堂の天井の全体が石造のヴォールトで覆われるようになる。身廊のヴォールトの推力に側廊で抵抗し、最終的には側廊の外壁で支えたため、ロマネスク教会堂の建築は外壁が厚い。身廊のヴォールトの推力の支持の仕方は身廊の立面構成と連動し、二層構成、三層構成など、身廊立面が組織化された。
ゴシック建築は都市の中に建てられる。フランスでは、国王の後ろ盾を得て、都市に建つ一般民衆のための宗教建築-大聖堂が次々と建てられた。それまでのロマネスクとは全く異なった、光に満ちた、圧倒的な高さを誇る全く新しい建築様式だった。大聖堂の西正面も、様々なメッセージを発する大規模な彫刻やバラ窓で飾られ、双塔を備えて都市の力をアピールする。圧倒的な高さを誇る垂直性やステンドグラスを通して堂内を明るく照らす豊かな光も、都市の一般民衆に、神の高みと神は光であるという教えを感覚的に伝える要素であった。ロマネスク建築が既に発明した技術から、尖塔アーチ、交差リブ・ヴォールト、飛梁を選び取り、光を合理的に取り入れるため、ロマネスクとは全く異なる骨組み構造を実現した。建物に加わるすべての力は、リブ、柱といった線状要素が伝達し、建物の外の飛梁、控え壁へと伝えられる。線状要素は視覚的に造形され、線状要素以外は開口部となった。こうした建築が可能になった背景には、経済的発展、技術革新があった。特に建設機器、資材運搬法は飛躍的に発展した。
ルネサンス建築は15世紀のフィレンツェでメディチ家などの富裕な商人をパトロンとし、古代の「再生」を目的として始まる。ブルネレスキはフィレンツェの大ドームにおいて、古代建築の研究を通じた独創的な解放を提示した。孤児養育院、サント・スピリト教会にみられるように古代の建築言語の正確な際せとよべるものではないが、オーダーを意識した構成であることに変わりない。さらに、サント・スピリトでは、正方形を単位とした単純な幾何学的構成による平面と、一定間隔に配された柱の規則性によって透視図法の効果が増幅されている。このように比例原理に基づく様式であった。また、アルベルティによって「建築論」に代表される建築書が描かれ、建築家の自我の成熟が見られる。その後ルネサンス建築は舞台をローマへと移し、教皇という「権力」を新しいパトロンとした。それまで以上に「力」の表現が求められ、より正確な古典古代の建築言語を獲得していく。ブラマンテによるテンピエットは古典様式の理想が凝縮された、盛期ルネサンス建築の完成系の1つである。ブラマンテの時代に古典主義建築の典範が完成された。つづく世代はこの様式と手法(マニエラ)を学び、それを積極的、あるいは批判的に自らの作品に取り入れた。イタリアの都市国家が衰退していく中で、当初の理念は失われ、その手法(マニエラ)がひとり歩きして奇抜な建築・美術が生まれていきました。そのようなルネサンス末期の動きをマニエリスムと呼びます。マニエラ(手法)はマンネリの語源であり、マニエリスムはマンネリズムのことである。マニエリスムの建築は、ルネサンスのようにきっちりと古代ローマを規範とせずに、その要素、手法を変形、組合せ、操作、引用などの技法で逸脱し、ある意味では発展させたものといえる。このことは、現代建築でのポスト・モダンの動きによく似ているといえる。
バロック建築は宗教改革後、腐敗を糾弾されたカトリック教会も、対抗宗教改革とよばれる内部刷新を試み、芸術を通じて民衆に対する説教とプロバガンダを成し遂げようとする。建築はその舞台となる。ルネサンス建築の静的な秩序や均衡を第一とするその姿勢と対象をなす。建築家は教会と絶対君主を最大のパトロンとし、その威光を民衆にプロバガンダすることを目的とした教会堂や王宮の造営に従事する。より感情に直裁に訴えかける装置として建築を機能させるべく、官能的な曲線や装飾に加え、陰影の操作、透視図法的錯覚や古典的モティーフの変則的用法といった技巧を駆使し、幻想性を演出した。
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