2012年10月24日水曜日

価値

他人からみてどうみえるだろうか。

他人から見てどのようなことができる人間にみられるだろうか。

他人から見てどうなっていくと思われているか。

他人から見て面白いからお金をはらってもよいかもしれないと思われることがあるだろうか。


自分が今伸ばすべき能力は何か。
そのためにはどこにいて何をしてたらよいのか。
何を考えて目標にしたらよいのか。

お金はそろそろつくらなきゃいけない。
やりたくないこと、自分にとって無駄なこと、やりたいけど将来性が見込めないものは切り捨てて生きるためにどうしたらよいのか。

2012年10月14日日曜日

自己分析

僕、年上や目上の人に対して思ってもいないことを良く口にするようだ。

多分だいぶ損してる。同級生や後輩には自信もって語るのに。

で、謙遜して思ってもいないこと口走ると考えていることを相手に誤解されてしまう。

好きなものがあるんだから無理しないでそれをやればいいんだ。


自由にやりたいことをやるってのが基本で、そのやりたいことのために色んな我慢をするんだ。





って、大人が苦しんでるのみて思った。


2012年8月9日木曜日

なにかとても悪いスパイラルにはいってしまったみたいだ

ぬけだせない



どうしたらいいんだろう

自分のやりたいことはなんだろう

10年後、20年後どんなふうになりたいんだろう

いまやってることの有益な部分はわかるんだけど

もう生理的にやりたくない




うまく人に説明できない

うまくわかってもらえない

改善するにはどうすればいいか分からない

本当につかれた




色んな本や言説読んでもなにもピンとこない

あこがれない

べつにやりたくない




プライドをもって何かをしたい

やりがいを感じたい

忙しく完成にむけてひたすら努力したい



本当に苦しい

居場所がない気がする



自分がやりたいことを建築界の系譜にのせられない

だれに教わればいいんだ

それともわがままなのかな

ただフラストレーションがたまっているだけなのか



みんな何で建築やってるの

建築がすきだから

建築がなにかできるとおもうから

僕にはりかいできない

建築も建築家もほとんどすきじゃない



自分建築で何がしたいんだろう



けんちく

けんちく

けんちく


うぅ





2012年8月8日水曜日

建築家の解散

「すべては建築である」という彼の発言は、当時の世界の状況だからこそ生まれたのか。

1960年代、モダニズム、またはメタボリズム、可動建築などが一世を風靡していたころ、建築は大きく揺さぶられていたようだ。第二次世界大戦が終わり、経済成長と共に日本では多くの箱がつくられていた頃だ。

ハンス•ホラインは危惧していた。彼は、建築という曖昧な概念が、彼らの日常的な、職業的な作業としてのみ解釈され、旧来の、せまい枠にますます閉じこもり、これを保持することに汲々としているような建築家たちを、その根底から揺さぶろうとした。

もっとも建築の実作において付随させた新たな象徴性は、キャンプなバロックといわれるようなもので、貴族趣味、アナクロニズム、高踏的なものへの偏愛がひそんだマニエリスム的性向を帯びたものである。

環境のなかに投入される全決定要素こそが建築である、つまり、われわれの世界に発生するすべての出来事が建築となるという思想は、建築を情報としてとらえ、非建築的、非実用的な形態を内包する。その背景には発展した建築技術や機械、タナトスとエロスの衝動などが存在する。

磯崎新は、建築の提案が非現実的な色彩をおび、空想的なものでありながらその存在を獲得し、有効性をうむのは、その建築家が社会から疎外されているときだけであるという。

僕にはホラインが、近代化の一方で失われていく重要な何かと、彼自身の体験からくるタナトスとエロスの探求に身を任せているように感じる。そして、「すべては建築である」という彼の発言は外向きのもので、実際は彼自身、すべてが建築であると思っていないのではないか。

「すべては建築である」は当時の情報端末の発展やホラインの体験からうまれたもので、現代でそのままその意味をとらえるのはやや危険である。今現在、実態を持たない建築の提案は、それほど建築界では重要なインパクトを与えていない。なぜなら、建たないから。たとえ建ったとしても、その他の条件によってメッセージとは引き換えに失うものを多く持つ。

現代において建築を取り巻く環境はますます複雑化し、多岐にわたっている。建築は様々な分野を横断して考えられることが求められるが、一方で、実体としての限界もある。

僕の今の考えは、無理に建築の概念を拡張させるのではなく、建築が責任を持つ範囲をもう一度見直すべきだということである。

そしてその範囲の決まられた建築の世界から逸脱する場合は、建築から撤退することが妥当ではないか。

「すべては建築である」を現代において読み直すと「建築から撤退しろ」になると考える。

壮大な意思によって固められた客観的視点からの分析を通して理想を掲げ、程度を調節するのみにとどまるのなら、建築から撤退しろ。建築家の解散。



2012年8月4日土曜日

「ヴィラにおける人間の自然に対するふるまい」


 今回建築史の授業でいくつかのヴィラを学び、一口にヴィラといえども、建てられる年代や、敷地、依頼主や建築家の意図によって様々な種類があることがわかった。すべてに共通していることは庭園を所有していることと斜面地に建ち、眺望が確保されていることである。斜面の勾配や邸宅、庭園のデザインはそれぞれ異なる特徴を持つ。
 庭園は自然を人間の手によってコントロールしたもので、そのデザインは建築家や依頼主などの当時の思想を反映していると考えられる。ヴィラにおける庭園はどのようなものであったのだろうか。
 ヴィラが建てられ始めるルネサンス期は、それまで曖昧な関係であった芸術と科学が直接関係付けられていった。古代ローマのウィトルウィウスは、人間の身体と円との関係について論じ、ルネサンス期にアルベルティによって発展され、自然の数学的翻訳に基づき芸術における美学の法則が述べられている。つまり人文主義からの系譜で庭園の幾何学的な整形はつくられた。ヴィラは、周囲のランドスケープを取り入れ、自然から受ける無秩序から隠れた法則を導きだし、理想を表現する場としてつくられていった。
 ヴィラの敷地は眺望上の理由で斜面地に建てられたが、平面的に無秩序に広がる自然を、地形を巧みに利用して風景のレイヤーを作り出している。その眺望の先のフィレンツェや他のヴィラはその自然の風景のレイヤーの1要素として取り込まれ、離れていながらも遠くの空間を所有する感覚が、風景により秩序をもたらしたのではないか。また庭園内に入って初めて開ける眺望や、庭園内の幾何学的に制御された自然は自然の無秩序さを軽減し、抽象化することで理想の風景を分かりやすく提示したのではないだろうか。
 ヴィラの庭園や邸宅はルネサンス期からマニエリスム期に移るにつれて、遠近法によってより自然を劇場化したり、グロッタや噴水、彫像などをつくったりすることによって、古典古代の典範からの逸脱を許容し、自然の創造を超えた祝祭的な空間を作り出す場となっていく。場面展開における論理的な構成は庭園内にストーリーをつくりだすために必要であったと考えられるが、1つ1つの場面ではより断片的なありのままの自然の模倣が自然の永遠の活力を彩る絶えず変わりゆく形や力を賛美し、それらが芸術の創造を通しのみ表現できることがブオタレンティによって表明された。そこでは景観の構成要素としての幾何学はフィレンツェを指し示す軸線のみになっている。つまりフィエゾレ、カステッロ、ペトライア、ペトリアーノのヴィラなどに見られるように一見全く様相の異なる庭園がルネサンス期からマニエリスム期にわたって散見されるが、それらは実はすべて自然に対して人間がどのようにふるまうかという葛藤の中で生まれてきたものであるのではないか。それは幾何学的であったり、彫刻的であったりと様々であるが、その場面に出会う瞬間やシークエンスはとても大事にされている。
 自然に対して人間がどうふるまうかという問題は現代の建築や都市においても語られる。主に都市において自然は植物に翻訳され、景観は建物のファサードになる。都市の風景は高層ビルのみが独占するが、フィレンツェのヴィラでみられるような空間のレイヤーがある風景ではなく、広がるのは等価な建築群の集合によってつくられる雑多な風景である。郊外は都市に比べて幾分自然に溢れているが無秩序である。その中の建築もそれぞれの土地の所有者がバラバラに建てるので、建築群も無秩序である。
 フィレンツェで議論された自然は隠された原理を持ち、永遠の活力を示す神秘的かつ学問的なものであった。それらの真理を明らかにしようと幾何学的に秩序化したり、彫刻や自動人形などで模倣したりすることで表現し、庭園として整えることで風景や庭園内のファンタジーを作り出していた。人間が歩き、シークエンシャルに自然と出会う瞬間を何よりも大切にしていたことが感じられる。自然に対してとても謙虚な姿勢であった。
 フィレンツェのまち全体としてのふるまいも自然に対して謙虚であったように思う。クーポラを中心とし、ある一定の範囲におおよそ同じ素材、規模で建てられたことは、離れた場所から見た時、風景の1要素として秩序だっていたのではないか。
 風景を構成する要素である山や谷、空、都市などスケールに対して謙虚であり、ヴィラから眺めるとき、アルノ川や山、空などの自然景観との調和がなされていたと推測している。
 現代の都市においても自然景観を機能だけでなく美的観念をもってその場所の風土的な特質を読み取り、表層だけの景観にこだわるのではなく、風景として空間を秩序立て、ある一定の離れた距離から町を眺める視点を大事にすべきではないだろうか。そうすることで無秩序に広がる都市の中で、身体に呼応する、自分のまちを所有する感覚を持つことができるのではないだろうか。

装飾、ファサードを選択する理由の「自然さ、純粋さ」


現代において建築を設計する自分にとって、建築の設計とはその敷地環境を読み取り、施主の要望を反映させ、その場所に相応しい自然さを持ち、同時に新しい環境を生み出すことだと考えている。漠然としているし、マニフェストともいわれるような建築家のエゴみたいなものが現れるかもしれない。きれいにプレゼンはするが、実際のところ条件と自分の理想のバランスを調整しているだけとも言える。
 現代の建築は都市や町に住むすべての人が享受するものではない。建築界で大御所といわれる建築家の作品でさえ、わずかな人にしか受け入れられないこともある。ましてやその思想を理解して利用している人はほとんどいないのではないか。かくいう自分も、建築家の視点でみる建物もあれば、一般の人と何の変わりもない、近いとか安いとか分かりやすいだとかの基準で建物を利用する。建築家の提供する環境や空間にひたる時間は意識して足を運ばなければほとんど得られないのが現状である。
 
 西洋建築史を学ぶと、建築はその時代においていつも重要な役割を負ってきたように感じる。特に宗教建築は、神と人間をつなぐものとして、人々の習慣の一部として、または都市の景観として重要な役割を担っていたのではないか。様式ごとの形態の変化も宗教上の理由や芸術として変化を続けてきたように感じる。何か現代で設計する自分とは大きく異なる価値観で建築がつくられている。建築の設計とはなんなのだろうか。
 先日、スイスのETHのピーター・メリクリのスタジオの様子とその作品が竹中工務店A4ギャラリーに展示をみてきた。メリクリのスタジオは課題のはじめに48枚の様々な国や文化の写真や絵画を提示する。スタジオの履修生は彼らのバックグラウンドにはない風景を目にし、考え、設計のコンセプトを抽出する。ここまでは少し変わった設計課題設定としてそれほど珍しくない。しかし、スタジオで生まれてくる作品達はヨーロッパの街並に自然と落ち着くような作品に仕上げる。これは現代の日本の建築設計を学んできた私にとって衝撃的であった。建築設計のコンセプトを抽出するところまでは同じなのだが、そこからの設計プロセスが違う。私はおそらく客観的にふるまいながら新しい建築へと飛ばしていこうとするプロセスをとってしまう。出来上がるものは新しい形態を示すが、それが本当に都市の中に建ったらどんなに奇妙に感じることだろうか。
 「形態は機能に従う」「近代建築の5原則」「less is more」などの近代建築、またはモダニズムは装飾を否定してきた。その結果、どの都市にも似たような風景が広がった。ポストモダニズムはモダニズムを批判し、装飾が復権する。しかし、コンテクスチャリズム的な引用でない部分も多く見られ、日本ではわずか10年ほど消え去ってしまう。このように近代における装飾は建築の本体とに付随するもの、表面上のもの(キッチュ)として語られてきた。そしてほとんどの場合、文脈のない装飾は忌み嫌われてきた。
 私が知る限り西洋建築史における装飾の出現はギリシア建築のオーダーの柱頭部分のデザインが最初で、その後ローマ建築、ルネサンス建築以降でオーダー自体が装飾として用いられ続けることになる。ゴシック建築のファサードにみられるバラ窓や彫刻も装飾である。しかし、ルネサンス期のイタリア人いわく両者には決定的な違いがあり、「芸術が頂点を極めた古典古代」を継承するがゆえにゴシックは伝統と断絶していると主張した。
 つまり美的規範としてのオーダーの装飾は単なる表層的な装飾ではないということである。それを言ったらゴシックだって中世スコラ哲学の理念、つまり神を中心とした秩序を反映した構成で、ゴシック教会を彩る様々な装飾は、聖職者たちの世界の対する理解そのものであるとも言える。
 ルネサンス建築は結局その後、マニエリスムを経てバロックへとつながり、過渡な装飾を示すような建築も現れる。グリーク・リヴァイヴァルやゴシック・リヴァイヴァルではそれぞれの構造的合理性や明確性の正当さが指摘され、装飾としてのオーダーは批判された。しかし、それらも結局は歴史主義であり、本当の意味で表面的装飾がなくなったのはモダニズムだろう。しかし、モダニズムさえ、ベンチューリによってある意味装飾的であることが指摘された。
 ではそもそも装飾とはいったいなんなのだろうか、建築のファサードなのか、なくてもいいものなのか、メッセージなのか。西洋建築史を振り返ると、初期キリスト教建築のバシリカ式教会のように引用しては発展するといったことが繰り返され、最初は形態と機能が断絶していたものを、徐々に形態を機能に従わせるように発展をしてきた。ベンチューリのあひるの指摘だと、「形態が機能にしたがう」建築はその建物の用途が形態になり、装飾にもなっているものも内包するということだろう。つまり、「形態と機能が断絶」していない限り、無装飾はありえない。一方でそれは折衷主義や様式主義、またはラスベガスにみられるような「様式と機能が断絶」した建築も内包する。おそらくどちらが正しいということはないのだろう。
 
 さきほどの装飾論に評価軸を与えるとすると、あれは装飾またはファサードを選択する理由の「自然さ、純粋さ」といったところだろうか。この視点で見ると西洋建築史における変遷はそれぞれの純粋さをもっていたように思える。もちろん選択する理由の「自然さ、純粋さ」というのは対象によって異なる評価軸のためよくないかもしれない。なぜならそれは宗教者側の視点であったり、パトロンの視点であったりもするからだ。   
 それはさておき、人々の意識に訴えるような違和感を与えやすい対象は存在すると私は思う。例えば建築が建つ周辺の景観を対象とすると分かりやすい。建築は大きく、風景に大きく影響を与えるのでこの意味での自然さや純粋さは必要となる。つまりファサードである。現代においては古い西洋建築のほとんどが観光地になっているように景観としてだけ見たときの自然さや純粋さを持ちながら目を引くものになっている点は評価されるべきだと思う。先にあげたメリクリのスタジオの作品はその自然さ、純粋さを持っているのだろう。宗教上の理由を建築に求められない現代では、よりこの景観を対象とする評価は強いように感じる。 ルネサンス期のブルネレスキのフィレンツェ大聖堂のドームにしても、純粋な古典古代の再生と言うよりも自らの構想を実現するためにその目的に応じて選択している点、装飾の自然さ、選択される純粋さが重要であったのではないだろうか。
 景観に対する装飾やファサードを選択する理由の「自然さ、純粋さ」とはなんだろうか。おそらくこれは案外簡単で、色、材料、プロポーション、密度が大きく影響を与える。おそらく周辺と同じものほど景観になじむであろう。ディティールや位置、規模は変化し得るし、先ほど挙げた項目の中にも変化してもなじむものがあるだろう。
 以上から現代の建築がある種の自然さを失っている、または学生が形態的に目新しい建築を目指そうとする理由を2つ考察する。
 1つは現代の建築が周辺環境に対する自然さを失っているからではないかと推測する。例えば現代の日本の郊外にひろがる自然の風景は、スーパーがあり、ハウスメーカーの戸建住宅があり、国道を車が走る風景である。その場所で建築を求める人々はその風景が前提となる。またそのような風景の中で育った建築を学ぶ現代の学生は、豊かな自然や八百屋や魚屋さんが建ち並ぶ古き良き風景などの原風景にリアリティなど感じない。設計において各人の中でリアリティあるものしか扱われない傾向は、大学の最初の設計課題でよくみられるそうだ。しかし、現代の建築家はハウスメーカーのようなキッチュな意匠をまとったものを建築としてみなさず、現代の建築の価値観を学生に植え付ける。
 建築家の作品には傾向があり、それはある意味、モダニズム建築のように似たようなものがあちこちに建てられる。なぜなら建築家は新しい建築の内部空間に腐心しているからだと考える。建築の外部は自由につくれないし、監理する人も様々であるから自由に扱える内側に向くのは当然である。もちろん敷地の周辺環境を考え、それをふまえて設計するのだろうが、あくまで建築の内側に向く。一概には言い切れないがこの傾向は現代の建築家には多かれ少なかれ必ず存在する。
 つまり外からみたときの建築がその場にあらわれる「感触」みたいなものがおろそかになってはいないだろうか。さきほども言ったように建築は大きい。色や材質が変わるだけで外から見る雰囲気はかなり変わる。メリクリは建築家ヴァレリオ・オルジアティと彫刻家のハンス・ヨゼフソンに師事したが、私はこのことがメリクリの「自然さ」と関係がなくはないように思う。彫刻は外から見るもので周辺環境に対するモノの存在を考える分野である。ルネサンス期のブルネレスキは金銀細工士、ミケロッツォは彫刻家でもあった。このようにモノの周辺環境に与えるリアリティは建築家にとって必要な能力ではないか。装飾はそのリアリティの上で判断されるべきものであると考える。
 もう1つは建築を求める側の思想が不足しているため、建築家の思想が一人歩きしているのではないかということである。社会と建築家は剥離しているという考え方がある。建築家は「発注者(施主)の命令にしたがって建築をつくる技術者である」と一般的に解釈されているということだ。建築家はもちろん施主のために建築をつくるが、それだけではなく、その周辺環境など様々なファクターを考慮して建築をつくる。その環境を領有するものすべてのためにつくるのである。そこには物理的な環境だけでなく、ときにはメッセージが込められることだってある。
 現代において家を建てるときまたは選ぶとき、まず何を基準にするだろうか。広さと値段である。次に、日当り、駅やスーパーとの距離。これらが何を示すかというと先ほど力説した周辺環境にたいする自然さが施主側が考慮しないということだ。ファサードの色や建物の大きさはもちろん装飾なんて論外である。ごくたまに装飾が用いられるがそれは周辺との同調ではなく、差異化の手段としてキッチュ的に用いられる。世間的に無頓着ともいえる建築の外部環境への影響は統一感のないごったな景観を生み出す。建築家はそれぞれの思想を主張し、一般の建築と剥離する。このような状況が一般の人々と建築の剥離を招いているのではないか。

2012年7月17日火曜日

ヴィッラ

ルネサンス期のヴィッラ・フィエゾレとマニエリスム期のヴィッラ・カステッロ、ヴィラ・ペトライア、ヴィッラ・プラトリーノ、ヴィッラ・ガンベライア、ヴィッラ・ポッジョ・ア・カイアーノ、ヴィッラ・アルティミーノ、ヴィッラ・イ・タッティを授業でやった。

ようは金持ちの別荘で金があまりあるメディチ家って人たちが思想家や建築家につくらして、色んな意図が組み込まれてるから貴重らしい。

そのお金持ちたちは都市の中にパラッツォていう住宅も持っていてヴィッラは週末過ごす別荘らしい。距離的には馬でいける5kmくらいのところの山地の斜面に建てるらしい。

ヴィッラ自体は、都市が周辺部への支配力を増し、田園を防御する必要がなくなった時であるらしい。ローマ時代の帝政期とルネサンス期15世紀以降。その間の中世はヴィラでなくて、カステッロ(居城)とボデーレ(農場)らしい。ヴィッラ・フィエゾレは急峻な斜面に建っているがこれはボデーレでは絶対にない。ヴィッラの位置は社会的、視覚的、気候的要因によって決定されていた。

ヴィッラからは基本フィレンツェのクーポラがみえる。しかし、必ずしもクーポラに向かう軸線に沿って建てられるのではなく、地形に沿って建てたうえで、クーポラの軸線をふまえる。パラッツォからもヴィッラがみえる関係がある。

ヴィッラは風景へ細心の配慮が払われている。邸宅さえも外の景色をどうみるかということに腐心していた。自然と正面から向き合っている。それもシークエンスで人が実際どういう風に訪れるかをしっかり設定している。

風景や庭について考えてみよう。

まず場所によって空間の見え方がある程度決まっている点。シークエンスを意識しているといよりもシークエンスを拘束しているともいえる。もっと細かく説明すると動線を拘束している。つまり、x-y軸の直線的な行動範囲を規定する。帯のような空間というか、動線空間がある。ヴィッラ・フィエゾレでは直線、ヴィッラ・プラトリーノは曲線。フィエゾレからプラトリーノはかなり変わっているが、その線的に行動範囲を縛るのは似ている。
縛るという言い方は良くないかもしれない。やんわりと規定する。だからフィレンツェ方向の軸をそれとなくいれることができる。自然ではありえない、彫刻的なトピアリーとまっすぐな道、幾何学的な植栽。そうすることで方向性ができ、よりフィレンツェの軸を際立たせることができる。フィエゾレでは。自然と人工のバランス。そして見え方を拘束する。風景がどこからでもみえるのではなく、そこからしかみえないという環境を作り出す。風景を所有するなんて、どれだけ贅沢なんだろう。風景は空間のレイヤーである。前景、中景、遠景があって初めて風景である。しかも単純な漠然とした風景、自然の風景でなく、都市を眺める風景であり、そこにクーポラがあることで風景の曖昧さを取り除き、細かな風景として見られる。
ヴィッラの建築家側は前景を用意し、あとは風景が独占できるように、指定した場所から見えるようにしむければ良いのである。そうするとクーポラの果たす役割や、その距離感はとても大事だ。馬でいける距離かつ、離れていながらもフィレンツェの都市を所有しているような感覚をもつような距離感が良い。

ヴィッラの各レイヤーやレイヤーを構成する要素に興味がある。

ヴィッラ内のレイヤーは幾何学的な比例原理に基づく手法にしたがってきっちりとつくられている。ヴィッラ・フィエゾレは奥行き方向が短く、その分コンタにそう方向が細長くなったのだろう。ヴィッラ・カステッロはそれに対して奥行き方向のほうが長く、各レイヤーの奥行き方向も長い。それゆえ段差でなく、斜面のまま整備された庭もある。ヴィッラ・カステッロの大きな特徴はエントランスが一番下からで庭園のレイヤーの最下部にある邸宅を糸杉の間から眺めてアクセスする点ではないだろうか。その邸宅の前には白鳥の湖ややり台がある。その邸宅内部を通り過ぎ(つまり門のように邸宅がある)、斜面庭、噴水とヴィーナス像を通りグロッタにいきつく。グロッタとは小石、石灰石などを丹念に張り付けた人工洞窟風の装飾の事でオルフェウスと異国の動物たちが中におかれいる。そしてその上のレベルまでのぼると眺望を楽しむテラス。森の中心には巨大なブロンズ像がおかれる。そして邸宅の屋根の向こうにカステッロの街並、その背後に、アルノ川の谷の全景がある。一連の空間を軸線上に配置した末に、最大のエレメントであるアルノ川の景色を加えた。フィエゾレと同様シークエンスを意識しているが、より多くのエレメントがシークエンスの中に配され、一連の独立した空間が軸線上に1つずつおかれている。グロッタや彫像、または庭園の誇張された遠近法はマニエリスム的といえる。


ヴィッラ・ペトライアの敷地にもともとカステッロが建ってた。糸杉によってフィルタリングされた道を抜けると一気に広がる二極性はマニエリスムの特徴である。邸宅は庭園内の最上部にあり、入り口は下の庭園にある。庭園は斜面にある。最も低いテラスは花が植えられた庭園、次に高いテラスとは邸宅の主軸線上の、左右から上る対象形の階段で結ばれる。そのテラスには魚の池、動物の形の生け垣がある。邸宅の建つ一番上のテラスへは、魚の池の東端という偏った位置にある階段を使わなくてはいけない。東対角線方向にフィレンツェがあるためで、望楼や彫刻がおかれ、非対称になっている。


ヴィラ・プラトリーノはメディチ家のブオタレンティがヴィラの邸宅と広大な庭園を設計したものである。このヴィラが位置する丘を擬人化してゲニウス・ロキ(地霊)を表した巨大なアペニーノの彫像がジャンボローニャによってつくられている。芸術家を招いて数多くのグロッタや噴水がつくられた。このヴィラはアペニン山脈の南の丘陵地にあり、ここから南方向へは、フィエゾレに至るまでの眺望が開けている。モンテーニュによれば、フランチェスコ1世はこの樹木のない山がちな土地を慎重に選び、彼の手になる傑作を自然に足して誇示した。ブオタレンティはヴィラ周辺のランドスケープを自然のアンフィテアトロ(円形闘技場)に見立てた。このヴィラは自動人形や水オルガンなど、自然に起こる場面をそのまま模倣し、人間の五感すべてに襲いかかるように設計されていた。このヴィラの豊かさの中に、すべての面からのマニエリスムが結実している。官能、動勢、曖昧、驚愕、想像のすべてが主役を演じている。また、軸性と迷路性も2つが別れて隣接しているのではなく、双方が二重性をもって織り込まれながら統合されている。この設計では人の移動が重要な条件となっている。訪問者を1つのアトラクションから次のそれへと動かしていく。他のマニエリスムのヴィラと比較すると、ここでは主軸線に沿った移動は他の小道と同程度にしか重要でない。この主軸線上の道の主な機能は、大きな秩序ある空間をつくり、邸宅の階段に立って敷地境界を見通す所有者に遥か彼方のフィレンツェの方向を示すことにあった。


ヴィッラ・ガンベライアはフィエゾレのヴィッラと似たような敷地に立つ。庭園は噴水と彫像で飾られると共に、邸宅と直交する位置に、グロッタと果樹園への入り口をもつ芝生の球技場がつくられた。フィエゾレもガンベライアもアクセスの道からは見えず、建物の中に入りテラスに立って初めて全景が眺められ、ランドスケープとの関係が明らかになるようにつくられている。ガンベライアの平面はスタンツァ(調節)のコンセプトに従って設計されている。庭園を構成する各部分は1つずつモチーフをもつ。テラスとグロッタからフィレンツェの全景が眺められる。邸宅内部の中庭はひとつの内なるロッジアとして捉えることができる。邸宅のロッジアはファサードの中心部ではなく、2階の角にある。対称性を崩すあつかいであるが、ここからの眺めでは、庭園を手前にしたランドスケープとフィレンツェとが1つにつながるものである。

ヴィッラ・ポッジョ・ア・カイアーノはカステッロの改築。防御システムは継承しつつ、容貌はポルティコをつけるなど優雅なヴィラ。敷地に壁がめぐり、4隅に監視塔をもつ。

ヴィッラ・アルティミーノは同様にカステッロの改築でポルティコがつけられている。

2012年7月15日日曜日

建築と装飾

重複が多いかもしれないが、装飾や様式について項目をあげて考えてみる。










・装飾とは(芸術か)

装飾とは建築のそとつらであり、建築のイメージとして語られる。それは二次元のイメージであり、三次元的な空間とは断絶しているようにも感じる。モノをおあつらえむきに着飾らせることが現在の僕の装飾の解釈である。建築はその空間の快適さ、利用しやすさなどで評価されることもあり、その軸には装飾はなかなか乗ってきづらい。



・装飾の対象

装飾の対象とは装飾になんらかのメッセージを込め、それを建築の表層にもちいることとする。何を持ってメッセージとするかは難しいところだが、ギリシア、ローマを美的規範からの装飾、外観であるとすると最初にメッセージが込められたのは、ロマネスク建築のバシリカ式が変容した多層で双塔を備えた西側のファサードを持つ教会堂が挙げられる。多層で双塔を持つことで象徴性を有したように思う。ただそれほど装飾的なファサードではない。だとすると装飾でメッセージ性をこめた明確な始まりはゴシック建築だろう。都市の中にたち、一般民衆を対象としたゴシックの大聖堂は、光を取り入れるため構造的合理性から生まれた線状要素を視覚的に造形し、開口部にはステンドグラス、西正面には大規模な彫刻やバラ窓で飾られ、双塔を備えた。建物の外観を見ただけでどんな建物か分かるほどの装飾性をもつ大聖堂は明らかに都市の一般民衆に向けた意図をもつものであった。ルネサンス建築から派生したマニエリスム建築は前者を美的規範にのっとったものとすると、古典古代の典範から恣意的に逸脱し、宮廷などのパトロンを喜ばす、対象を持ったものになったのではないか。ルネサンス建築においてもヨーロッパ各地に移植されたものは古典古代の再生という目標をもたない、より装飾の根拠をもたないものになったといえる。バロック建築はカトリック教会の民衆に対する説教とプロバガンダを目的としたものであり、明確な対象をもつ。折衷主義は様式を選択するというものであり、それぞれの意図に対して装飾として様式が選ばれる点で対象をもつ。
日本でも銀行は古典主義(ギリシア、ルネサンす)で大学はゴシックが多い。教会もゴシック教会であり、お化け屋敷もゴシックの住宅である。
ラスベガスに見られる装飾が外観に明確にみられる、またはサインが装飾的になるといったものも客という明確な対象がある装飾である。
総じて見ると、不特定多数の人々を対象とする装飾は宗教的な意味合いか経済的な意味合いが強いように思われる。




・装飾と年代

装飾はその建築がいつどこで建てられたか判断する基準となる。テストで建築の名前をあてる問題の場合、まずその建築の様式の特徴がどの様式にあてはまるか考える。だから建物名が分からなくてもある程度説明できたりする(笑)。これは西洋建築のみならず、日本建築においても同様で寝殿造りなのか書院造りなのかっていうのはパッとみれば分かる。



・様式と宗教上の理由


 宗教と様式は密接につながっている。313年にキリスト教が公認されて以来、その社会における宗教のありかたや宗教の意図によって建築は変容していく。
 初期キリスト教建築は外観を質素にふるまい、空間性で宗教性を演出する、バシリカ式や集中堂式が採用された。バシリカ式はキリスト教の宗教儀礼は一般信徒と司祭が参加する集会的形態であったので、宗教空間としては有効に機能したと推察されている。バシリカはキリスト教の儀礼空間としての必要性から採用されたというよりも、むしろ建設が容易で比較的自由に大きさを決めることができ、装飾によって神聖な空間を得やすく、儀礼空間として融通が利くという実際的な理由から大量生産されたと考えられている
 つづく東ローマのビザンティン建築は宗教空間としてより象徴性の高いドームを取り入れた。
 ロマネスク建築ではバシリカ式が変容し、多層で双塔を備えた複雑な構成の西構え、内陣下の地下祭室-クリュプタなどがみられる。西を正面にするやり方は初期のロマネスク様式からでカロリング朝フランク王国(現在のフランス)から始まっており、国王の席を西構えと呼ばれるツインタワー棟の2階に置き午後の礼拝で西日を背にして国王に後光が差しているように見える演出から始まったようだ。また、ロマネスクの教会は巡礼教会堂が注目され、身廊は横断アーチ付き、トンネル・ヴォールトで覆われ、交差ヴォールトのかかった側廊の上には1/4トンネルヴォールトの架かったトリビューン(二階廊)が乗り、内部立面は二層構成となる。聖遺物信仰や巡礼が盛んになって大量に訪れるようになった信者が、自由に堂内を巡り歩ける形式である。
 ゴシック建築は都市の中に建ち、様々なメッセージを発する大規模な彫刻やバラ窓で飾られた西正面、神の高みと神は光であるという教えを圧倒的な高さを誇る垂直性やステンドグラスによって達成する。ゴシック建築は、尖ったアーチ(尖頭アーチ)、飛び梁(フライング・バットレス)、リブ・ヴォールトなどの工学的要素がよく知られており、これらは19世紀のゴシック・リヴァイヴァルにおいて過大に評価されたため、あたかもそのような建築の技術的特徴のみがゴシック建築を定義づけると考えられがちである。しかし、ゴシック建築の本質は、これらのモティーフを含めた全体の美的効果のほうが重要で、ロマネスク建築が部分と部分の組み合わせで構成され、各部がはっきりと分されているのに対し、ゴシック建築では全体が一定のリズムで秩序づけられている。ゴシック建築の達成は、中世スコラ哲学の理念、つまり神を中心とした秩序を反映したことにあると言える。中世の人々にとっては事物の全てに象徴的な意味があり、故に、ゴシック教会を彩る様々な装飾は、聖職者たちの世界に対する理解そのものであった。彼らは、美を神の創造と同義であると考え、教会を装飾することを神への奉仕と捉えていた。従って、扉口のマリア像や聖ペテロ像、聖ニコラウス像、ステンドグラスに画かれたキリストの生涯といったものは、決して現代人の意味するところの「装飾」などではなく、石に刻まれた中世精神の表象なのである。
 一般にゴシック芸術と呼ばれているものに一貫して用いられる形態的、図像学的な特徴はなく、実際にはゴシックとは、芸術史家たちによって慣習的に使用される概念である。今日においても、ゴシック建築の定義づけが行われているが、その議論は多角的かつ複雑である。
客観的な、最も馴染み深い特徴は内部的な高さと細さの誇張であり、簡単に述べると、必要以上に細い柱、石造天井、およびそれらを為し得る構造的特徴の組み合わせとなる。具体的に述べれば交差リブヴォールトとヴォールトの横への応力を支持するための側壁または控壁(バットレス)だが、これらはそれぞれ東方に起原を持っている。尖頭アーチはササン朝ペルシャ帝国において既に用いられているし、控壁はビザンティン建築においても見られる主要構造である。実際、ゴシック建築に特有とされる特徴は、ほとんどの場合、ゴシック建築において独自に発明されたものではない。ゴシック建築において重要なのは、これら技術的特徴ではなく、それぞれを組み合わせた独自の美的感覚や空間性にあると言えよう。





・装飾と宗教

キリスト教が公認されて最初の建築様式である初期キリスト教建築は外観は質素、内部の空間構成もシンプルであった。バシリカ式はナルテクス(玄関廊)からアプシス(司祭席のついた半円形の突出部)までの直線的な空間の連続、集中堂式はドームの頂点へと向かう急進的な上昇感が特徴的であり、空間性によって宗教性を演出している。その後ロマネスク、ビザンティン、ゴシックにいたるまで空間性によって宗教性が演出されている。バロック建築はカトリック教会が禁欲的なプロテスタントに対抗して過剰なまでの装飾によって、人々を圧倒するような場をつくろうとした。しかし装飾によって熱血的な空間をつくってだけで、直接的なモチーフをもったわけではなく、偶像やキリストの像が建築にくっつくことはなかったようだ。

・様式の使い方

様式の用いられ方には2種類あると考えている。1つは古典建築を引用するものであり、もう1つはギリシア建築に建築の原型をみるロージエの理論から展開される理知主義的な古典建築の合理的な解釈である。前者はギリシアに対するローマ、ローマに対するロマネスク、ギリシアに対するグリーク・リヴァイヴァル、ゴシックにたいするゴシック・リヴァイヴァル、ルネサンスに対するマニエリスムなどがそうである。後者はギリシア、ローマに対するルネサンス、新古典主義などがそうではないだろうか。前者はさらに2つに分かれ、憧れを持って引用されるものと単なる選択肢として引用されるものがある。
理知主義的な古典建築の解釈はルネサンス時代に建築家を生み出したように、建築論として何が美しいのか、建築とは何かという純粋に本質にせまるものである。
憧れをもって引用されるとき、リヴァイヴァルやロマネスクのように、研究や合理的な解釈が伴うことが多い.グリーク、ゴシックともにその構造の明確性、合理性から引用された。一方でギリシアに対するローマや、ルネサンスに対するマニエリスムのように手法として単に引用されると非合理な装飾になってしまう。


・装飾の排除

「装飾と罪悪」でアドルフロースは装飾を批判し、装飾を排除していく方向性が打ち出される。どんな装飾が嫌われるかは時代と人によって異なる。ルネサンスは古典古代を継承するがゆえに中世の伝統との断絶としてゴシックを攻撃した。当時新しいものを悪として捉える傾向のあったイタリアは革新の欲望を古典古代の再生に向かわした。それが本質であったとするとゴシックの批判はただのひがみかもしれない。その点ブルネレスキは純粋な古代の再生ではなく、自らの構想を実現するためにその目的に応じて手法をしていたし、ドームはそもそもビザンティンの技術の影響があったと言われている。
グリーク・リヴァイヴァルでは古代ローマからルネサンスまで装飾的な要素として用いられたオーダーのあり方を否定し、オーダーは構造体であるのが本質であるとした。
また、近代だとモダニズムは装飾を否定した。


・装飾と表面
・装飾と技術


2012年7月14日土曜日

西洋建築史

いろいろ調べてみたので、簡単に概説してみます。

ギリシア建築は主にパルテノン神殿に代表されるように神の像を安置するための神の家であり、特別な場合をのぞいて中に入れない。したがってギリシア神殿は外から見ていかに美しいかということが問われ、外的な視覚性が建築の構成美の本質となる。ギリシア神殿は外観を形つくる重要な要素としての円柱の姿や配列によってその美しさを競った。神殿の断面構成は、基礎の上に載る基壇、その上に立つ円柱、屋根を支える水平梁(エンタブラチュア)、切妻屋根の三角破風(ペディメント)からなる。柱を含めた基壇から軒までの構成をオーダーという。ギリシア建築のオーダーは、ドリス式、イオニア式、コリント式の3種がある。オーダーは各柱頭デザインに特徴が顕著であるばかりでなく、オーダー全体の比例関係(プロポーション)が異なる。

ローマ建築は古代ギリシアの美的規範を継承し、その建築もオーダーが用いられる。加えてアーチ、ヴォールトといった構法を発展させ、巨大な建築をつくりだす。また、古代ローマでは、構造と仕上げは別物として考えられた。コンクリートを手に入れた古代ローマにおいては、構造体としてオーダーを用いる必要はなく、構造体を仕上げる装飾的要素としてオーダーを用いた。皇帝の政治的意図や帝国と皇帝の権威を誇示するために大規模な公共施設をつくる。

初期キリスト教建築はキリスト教を公認したコンスタンティヌス帝によってキリスト教のための建築をつくる。教会は2つの基本形式をもつ。バシリカ式は古代ローマにおいて、裁判や商取引などの集会のための建築形式であった。外観は質素で内部空間が重要視され、アトリウムからアプシスまでの軸線が大切な特質である。死者のため墓廟は古来、円形や八角形、あるいは正方形といった平面の建物が多く、キリスト教も、死者をまつる建築として中心点の存在する建築様式を採用した。集中堂式も外観は質素で、円形や正多角形の中央の空間にはドームがかかり、堂の頂点へ向かう求心的な上昇感が本質である。

ビザンティン建築は東西に分裂し、独立した東ローマ帝国が、周辺のギリシア文化に影響をうけ、徐々に独自の建築文化を形成していく。ハギア・ソフィア大聖堂では集中堂式とバシリカ式の融合が見られ、身廊の中央に巨大なドームを載せている。箱形空間の上にドームを乗せるという建築課題は、正方形の平面の上に円形の基礎を持つドームをかけるという技術的問題を含んでいる。正方形の四隅に火打ち梁(スクィンチ)をかけて、全体を八角形にしてドームをかける方法やトロンプを持ちいる方法、ペンデンティブを用いる方法などが開発された。

ロマネスク建築は西ローマ帝国を滅ぼしたゲルマン民族が、キリスト教とローマ帝国再建の理想をもち、西ヨーロッパの大部分を統一したカール大帝の時代に建てられた。ヴォールトを導入し、空間の質に腐心し、宗教的メッセージを込め、特にバシリカ式教会堂が大きく変わる。アーヘンの宮廷礼拝堂はサン・ヴィターレ教会堂を模したローマへの憧れと重厚な記念碑性をみせる。この時代、宗教・政治・生産・学問の拠点として修道院が多く建てられ、修道院内に建つ教会堂はバシリカ式が主流になる。多層で双塔を供えた複雑な構成の西端部-西構えや、内陣下の地下祭室-クリュプタなどが加えられ、バシリカが変容する。また、それまで木造小屋組であったバシリカ式教会堂の天井の全体が石造のヴォールトで覆われるようになる。身廊のヴォールトの推力に側廊で抵抗し、最終的には側廊の外壁で支えたため、ロマネスク教会堂の建築は外壁が厚い。身廊のヴォールトの推力の支持の仕方は身廊の立面構成と連動し、二層構成、三層構成など、身廊立面が組織化された。

ゴシック建築は都市の中に建てられる。フランスでは、国王の後ろ盾を得て、都市に建つ一般民衆のための宗教建築-大聖堂が次々と建てられた。それまでのロマネスクとは全く異なった、光に満ちた、圧倒的な高さを誇る全く新しい建築様式だった。大聖堂の西正面も、様々なメッセージを発する大規模な彫刻やバラ窓で飾られ、双塔を備えて都市の力をアピールする。圧倒的な高さを誇る垂直性やステンドグラスを通して堂内を明るく照らす豊かな光も、都市の一般民衆に、神の高みと神は光であるという教えを感覚的に伝える要素であった。ロマネスク建築が既に発明した技術から、尖塔アーチ、交差リブ・ヴォールト、飛梁を選び取り、光を合理的に取り入れるため、ロマネスクとは全く異なる骨組み構造を実現した。建物に加わるすべての力は、リブ、柱といった線状要素が伝達し、建物の外の飛梁、控え壁へと伝えられる。線状要素は視覚的に造形され、線状要素以外は開口部となった。こうした建築が可能になった背景には、経済的発展、技術革新があった。特に建設機器、資材運搬法は飛躍的に発展した。

ルネサンス建築は15世紀のフィレンツェでメディチ家などの富裕な商人をパトロンとし、古代の「再生」を目的として始まる。ブルネレスキはフィレンツェの大ドームにおいて、古代建築の研究を通じた独創的な解放を提示した。孤児養育院、サント・スピリト教会にみられるように古代の建築言語の正確な際せとよべるものではないが、オーダーを意識した構成であることに変わりない。さらに、サント・スピリトでは、正方形を単位とした単純な幾何学的構成による平面と、一定間隔に配された柱の規則性によって透視図法の効果が増幅されている。このように比例原理に基づく様式であった。また、アルベルティによって「建築論」に代表される建築書が描かれ、建築家の自我の成熟が見られる。その後ルネサンス建築は舞台をローマへと移し、教皇という「権力」を新しいパトロンとした。それまで以上に「力」の表現が求められ、より正確な古典古代の建築言語を獲得していく。ブラマンテによるテンピエットは古典様式の理想が凝縮された、盛期ルネサンス建築の完成系の1つである。ブラマンテの時代に古典主義建築の典範が完成された。つづく世代はこの様式と手法(マニエラ)を学び、それを積極的、あるいは批判的に自らの作品に取り入れた。イタリアの都市国家が衰退していく中で、当初の理念は失われ、その手法(マニエラ)がひとり歩きして奇抜な建築・美術が生まれていきました。そのようなルネサンス末期の動きをマニエリスムと呼びます。マニエラ(手法)はマンネリの語源であり、マニエリスムはマンネリズムのことである。マニエリスムの建築は、ルネサンスのようにきっちりと古代ローマを規範とせずに、その要素、手法を変形、組合せ、操作、引用などの技法で逸脱し、ある意味では発展させたものといえる。このことは、現代建築でのポスト・モダンの動きによく似ているといえる。


バロック建築は宗教改革後、腐敗を糾弾されたカトリック教会も、対抗宗教改革とよばれる内部刷新を試み、芸術を通じて民衆に対する説教とプロバガンダを成し遂げようとする。建築はその舞台となる。ルネサンス建築の静的な秩序や均衡を第一とするその姿勢と対象をなす。建築家は教会と絶対君主を最大のパトロンとし、その威光を民衆にプロバガンダすることを目的とした教会堂や王宮の造営に従事する。より感情に直裁に訴えかける装置として建築を機能させるべく、官能的な曲線や装飾に加え、陰影の操作、透視図法的錯覚や古典的モティーフの変則的用法といった技巧を駆使し、幻想性を演出した。

2012年7月11日水曜日

ヴィラ

ヴィラまたはヴィッラ(villa)は、本来は上流階級カントリー・ハウスを意味し、古代ローマが起源だが、ヴィラの概念と機能は時代と共に発展してきた。共和政ローマが終焉を迎えるとヴィラは小さな要塞化された農場の複合家屋となっていったが、中世を通して徐々に再発展し、贅沢な上流階級のカントリー・ハウスとなっていった。現代では、特定の種類の一戸建て郊外住宅を指す。(wikipediaより)


メディチ家はフィレンツェ共和国時代とトスカーナ大公国時代を通して18のヴィラを建設した。古代世界ではすでに、多忙な都市の存在と田園における休息の存在を交互に使い分けていた。アルベルティは「建築論」の中で、ヴィラの理想的な位置は遠すぎず近すぎず(馬の時代)丘や平野のみならず、自分の都市が眺められる地点が良いと記している。ヴィラにおける田園生活の享受は、都市との関係の中でとりおこなわれていた。ヴィラが形成させる可能性は、都市が周辺部への支配力を増し、田園防御する必要がなくなった時である。ローマ時代の帝政期とルネサンス期15世紀以降で、その間の中世はヴィラではなく、カステッロ(居城)とポデーレ(農場)しかない。15世紀のフィレンツェ周辺では、メディチ家が古代のヴィッレッジャトゥーラの理想を復興させる言動力となった。アルノ川の両岸を中心に古代のヴィラ・ルスティカ(田園生活)を実現させた。


メディチ家が本格的なヴィラ建設を開始したのは、コジモ・イル・ヴェッキオ(1389-1464)の時代である。初期は14世紀に存続していたカステッロを改築したものであったが、その後ミケロッツォによるフィエゾレのヴィラで改築型を脱する。それは、田園生活の文化的理想が、既存の貸すテッロや農家といった伝統的文脈から切り離され、独立した建築形態として進化を遂げた最初のヴィラだった。


フィエゾレのヴィラはアルノ川から約250mの高さ、フィレンツェの中心から約5kmの距離にある。起伏のある敷地の南面は急峻な崖をつくり、ファサードはそれに抗してテラス上に力強く立ち上がる。ヴィラは南側の斜面にあるため、冬期の北東からの冷風から護られている。夏期には西側から海風が運ばれ冷気をもたらす。建物は自然の地形に沿って並び、東側の眺めは閉じられてムニョーネ川の谷の方にむき、そのはるか彼方にアルノ川の谷を望む。建物全体がバルコニーのように配置され、南にアルノの谷、西端にフィレンツェを見渡すことができる。ヴィラは3つのレベルからなる。北側テラス、建物のレベル、南側テラスの3つである。北と南の高低差は11~12mで、その間はパーゴラが載った重厚な壁体で支えられている。南側のテラスは行ったり来たりすることができない。曲がりくねる外の小道を通らない限り、この2つのテラスは邸宅内部だけを通して連結されている。


このようにフィエゾレのヴィラでは厳密に動線が導かれている。各場所にみてほしい方角、景色が決まっており、シークエンスの設計が細かくなされている。みられるものについては幾何学にもとづいたシンメトリーなどが特徴としてみられる。平面形もある単位の倍数でつくられる。幾何学的整合性をとるために窓のない場所にそこから見えるはずである絵を描くなどの手法もみられる。フィエゾレのヴィラはフィレンツェを望む方向と直角方向に重ねられた断面差をもつレイヤーに動線を通し、時折、フィレンツェ方向に視界を広げるという特徴がある。


ヴィラ・カステッロではヴィラ・フィエゾレと同様にフィレンツェを眺める方向ち直行にレイヤーを重ねている。フィエゾレと異なるのはレイヤーの数が増えたこと、斜面が取り入れられたこと、レイヤーに平行方向の動線の距離が短くなったこと、そしてレイヤーの一番下に建物が入ったことである。また、庭園は美術品で装飾され、数多くの新しい彫刻や人工物が自然から喚起されて付加された。ヴィラ・カステッロはフィレンツェの領域で初めてマニエリスムのヴィラであり、一連の独立した空間が軸線上におかれ、ルートがそれぞれを結んでいる。


ヴィラ・ペトライアはカステッロを作り替えたものである。邸宅中央の塔は望楼に改築され、ほぼ正方形の平面をもつ邸宅の中にはアトリウムがある。庭園は丘のやや急な斜面にあり、3つのテラスに分けられている。ヴィラ・カステッロとは対照的に、テラスは邸宅前方の低い位置にあるため、庭園を前景として邸宅がそびえ立つ。最も低い位置にあるテラスは丘の斜面に沿って大きく広がり、花が植えられた庭園をつくっている。一番下のテラスに植えられた背の高い樹木のスクリーンが主軸線方向の眺めを妨げているため、対角線方向のフィレンツェの眺めは一層強調されている。フィレンツェの眺望を強調することにより、主軸線による全体構成に非対称性を与えた。


ヴィラ・プラトリーノはブオタレンティによって広大な庭園とともにつくられた。このヴィラが位置する丘を擬人化してゲニウス・ロキを表した巨大なアペニーノの彫像がジャンボローニャによってつくられている。芸術家を招いて数多くのグロッタや噴水がつくられた。


自然との調和は数多くのランドスケープの場面に示されている。このヴィラにおいては、模倣は「自然」の象徴的な表現であるよりはむしろ、自然に起こる場面をそのまままねている。


邸宅の主軸線上に、南面の並木道に沿って小さな噴水が連続してつくられ、その水煙に虹が輝く時は、後方の邸宅を七色の光で包み込んだ。数多くの仕掛けが庭園のさまざまな場所で音楽や音を奏でた。モンテーニュによれば、人間の五感すべてに襲いかかるように設計されていた。このヴィラの豊かさの中に、すべての面からのマニエリスムが結実している。官能、動勢、曖昧、驚愕、想像のすべてが主役を演じている。


この設計では人の移動が重要な条件となっている。それはカスケードや噴水での水の流れに似て、訪問者を1つのアトラクションから次のそれへと動かしていく。他のマニエリスムのヴィラと比較すると、ここでは主軸線に沿った移動は他の小道と同程度にしか重要でない。それは単なる全体のルートの中の直線道に過ぎないのである。この主軸線上の道の主な機能は、大きな秩序ある空間をつくり、邸宅の階段に立って敷地境界を見通す所有者にはるか彼方のフォレンツェの方向を示すことにあった。





2012年7月10日火曜日

ルネサンス建築と現代の建築について

建築はその時代の背景や前の時代の流れに大きく影響を受ける。ルネサンス建築期はそういった意味で様々な変革や新しいものが生まれた。

ゴシック期まで建築は修道院や聖堂建築がほとんどであったがパラッツォやヴィッラと呼ばれる邸宅に代表されるように俗の世界に建築が降りてきた。

1348年ペストの大流行によって人工の2/3のがなくなったフィレンツェでは都市のために団結する共通意識が生まれ、裕福な商人が都市に対して投資をしたという考え方があるが実際は商人が生前にキリスト教をおかした免罪符として投資していたという事実もあるらしい。ともかく豊富な資金がそこにはあり、経済発展していたのだ。

もう1つはイタリアの周辺国を中心に発展した全く新しい様式であるゴシック様式、イタリア内で変革を求めながらも当時の風潮として新しいものは望ましくないとされていたこともルネサンス誕生を促した。フライングバットレスのような内部の開放的な空間をつくるために外に力を流し、それを形態としてみせたゴシックがオーダーなどの単純な構造要素と比べて邪道にみえたのか。ともかく、建物の本質、建物が芸術であった古代ギリシャ、ローマへの回帰はなんとなく分かる。

そのような背景からルネサンス建築はつくられていく。
そしてルネサンス期の一番大きな変革を僕は建築家の誕生だと考えている。それまでは石工親方でしかなかったが、ブルネレスキ、ミケロッツォ、アルベルティらによって建築家という立場が確立されていく。

まずブルネレスキは金銀細工師として修行を積んだあと、フィレンツェのクーポラの設計において建設法、建築機械の考案、そして建設現場の組織化を図る。建設のタクトをより俯瞰した位置からとり始めた。

ミケロッツォは生涯で100以上の建築に関わる。彼は彫刻師として活躍したあと、自らの手でじっくりと自分が組織した職人達を育成した。それによって彼は建設工事の幅広い監理を避けて、建築の設計者として数多くの仕事をこなそうとする姿勢を保ち続けることができた。図面や模型、あるいは簡単な指示だけで自分の意のままに動かすことのできる建設工房を組織していたのである。工務店のボスみたいな感じである。

そしてアルベルティはルネサンス期の万能人であり、彼の数々の理論にて後世に大きな影響を残した。「建築論」には理想の建築家像が明記された。

「賞賛すべき確かな理論的方法と手順とで、知的に精神的に決定し、作品を実施し、いかなるものであれ、重量の移行と物体の結合、組織を通じて、それを人間の最も権威のある用途に見事に献げることを心得た人」


ルネサンス期はこのように現代でいわれる「建築家」が誕生した時代であった。
また、建築において議論される内容もかなり現代に近くなる。

フィレンツェの大聖堂の大ドームをつくったブルネレスキは古典的な言語の再生、オーダーと比例原理に基づく様式だけでなく、それまでの歴史(ビザンティンの科学技術)などを統合して生み出した。つまり単純な様式史で語ることのできる範囲を超え、自らの構想を実現するためにその目的に応じて選択していたのである。この変化の背景には建築がより都市や俗世界に近づいたことも影響していると考察する。サント・スピリト協会でも正方形を単位とした単純な幾何学構成によって平面が支配されるとともに、一定間隔に配された柱の規則性によって透視図法の効果が増幅されている。

ヴィッラにおいても幾何学的整合性が重要視され、ときには偽りのファサードさえも用意する。

古いものへの回帰といえばポストモダンが思い浮かぶ。近代建築によって切り捨てられた「歴史性」「装飾」「地域性」などが復権を遂げた。チャールズ・ジェンクスは「ポストモダンの建築言語」で近代建築の死を宣告した。死因は機能主義の一元的システム、そのハイカルチャー性、つまり形骸化・制度化してしまった近代建築のコミュニケーション不全、あるいは断絶にあったとの批判的分析をした。

ポストモダンはについては、「ハイブリッド」「二重コード化」「多様性」が特徴で。「歴史主義」「直進的復古主義」「ネオ・バナキュラー」「コンテクスチャリズム」「折衷主義」「アーバニスト・アドホック」などのデザイン特質があるとした。

ルネッサンスは徐々に古典的な言語が政治的理由によって使われはじめ、古典的言語を装飾的に力の象徴として利用していった点で、本来の意味を忘れて反復されたポストモダンと似たような点があるように思うが、ブルネレスキが、ロマネスク建築のように古典的言語を単に利用しただけでなく、ローマ建築の構造を研究し、これに数学的比例を組み合わせ、学術的なアプローチをとったように、模倣者ではなく、知的・文化的価値の創造者としてルネサンス建築をつくった点は古き良き時代への回帰だけでなく、ゴシック末期の過渡な装飾、中世的都市空間に対する批評を人体の比例に基づくといわれるオーダーを用いてより幾何学的に数学的美しさを体現することで示していた。


このことは単純な美しさの追求から政治的権力の象徴としての目的の変化が「古典の模倣=ルネサンス」という誤解を一般化させてしまったことを意味している。


建築学として理想が示された、知的・文化的アプローチから建築が考えられたという点で建築家の誕生、建築論の誕生を指摘することができる。建築と権力は密接に関係していてヒトラーとシュペーアもそうである。政治性や経済性がからむと安直な装飾論に陥ることはよくある。

2012年7月9日月曜日

ルネサンス建築

ルネサンス建築は15世紀のフィレンツェで、メディチ家に代表される富裕な商人たちがパトロンとなり、かつて頂点を極めた古代の「再生」を通じて成し遂げられる。

■16世紀半ば画家=歴史家のジョルジュ・ヴァザーリは「ギリシャ様式」と呼ぶビザンティン美術や「ドイツ様式」と呼ぶゴシック美術に対して軽蔑的な言葉を吐いている。

このような過去の様式に対する軽蔑的な態度をルネサンス期のイタリア人がしたのは、1つにはイタリアの芸術家たちがフランスやドイツ、イギリスの芸術家たちほどゴシック様式と密接に結びついていなかったためであったことを示唆している。革新はそれ以前に優勢を占めていた伝統が他の地域ほど深く浸透していなかった地域においてしばしば起こる。

ルネサンス期のイタリア人は伝統への敬意を全く失ったわけではなく、彼らが行ったことは、近い伝統をより古い伝統の名において拒絶することだった。15世紀の建築家アントニオ・フィラレーテは常にある種悪しき習慣が確立される以前の「古き良き時代」に戻るべきだと主張した。

もう1つの逆説は、イタリアの文化が革新の傾向を強く帯びていたこの時代に、革新ということ自体が一般的に悪とされていたことである。フィレンツェの政治的論争の中では「新しいやり方」が望ましくないものであることは当然のこととされ、「あらゆる変革はフィレンツェの評判を落とす」とされた。グィッチャルディーニは「変化」という言葉は非難の意味を込めて使われているように思える。

■ルネサンス建築はある一時代の人のものの見方・考え方を根本的に規定している枠組みとしての認識の体系様式史の限界も示すことになる。

■またルネサンス期には様々な位相の変化があった。人と神との関係の変質、自我の形成、新たな世界の発見。過去に対する認識、時間的距離の認識。修道院改革、都市にたつ托鉢修道会。都市の復活と経済繁栄。都市国家と商人階級。

■過去の咀嚼とアイデンティティの確立
古代ローマの復興、古代ギリシャ研究熱とコンスタンティノープルの陥落、初期キリスト教時代の精神の復活、ビザンティンの科学技術導入、ゴシックの拒絶と温存。

■建築における変化
建築家の台頭:修道院から世俗へ。構造表現の明示。粗石積み。遠近法。明暗法。
イタリアとドイツ系の研究者は、ブルネレスキの様式を古代ローマ、あるいはロマネスク起源と考え、アングロ・アメリカン系の学者は、それに異議を唱える。しかし、問題はそれがローマ起源かどうかだけではない。ブルネレスキが古代ローマの建築要素を援用した場合においても何をどのような目的で用いたのかが重要である。

2012年7月8日日曜日

建築の解体

・○○のためだけのまち。
・現代のアーキグラム
・建築の可能性を拡張し、実際の建築も他から獲得した新たな建築の価値観でつくられる
・ひっかかるもの(気持ち悪いもの、分かりやすいもの)
・タナトスとエロス
・遠いものはゆっくり動く

建築家

理論と実践の間のギャップはその建築家がより建築を頻繁につくればつくるほど起こりうると思う。ここでいう理論はどちらかというと教科書にでてくるようなマニフェストのような理論ではないかと考えている。

マニフェストをもつということは怪しいことでそれが作品の事後的に生まれてくるものならいいけど、それが先行してしまうと説得力がなくなる。

建築家は場をまとめる、効率的に進める力が必要とされるが、それは一方で理論をおろそかにすると思う。理論はある仮定をたてて実証していくが、より実践的な建築家は仮定などしない。環境を深く読み取り、現実的な問題に対してのみ向き合い、統合する。

物理学のように研究ではある仮定をし、それを実証していくという流れであり、数学はその逆で帰納法的に観察から理論を構築していく。

建築家にはその両方の考え方が必要で、その棲み分けを意識し、自分が今何をしているかしっかり自覚しないといけないのではないか。

どちらがいいというわけではなく、他方が存在することを意識することを忘れるとどんどんある種のクリエイティブさは失われていく。

そんなのいわれなくても分かるという人は多いと思うが、その線引き、バランスをしっかり意識してる人は実は少ないんじゃないか。

僕は今の環境は数学に近いと考えているが、それによって自分がどんなバランスで考えてきたか分かってきた。そしてどんなスタンスで自分がやりたいのかも客観的におぼろげながら分かってきた。それが目指すべき目標かどうかはまだわからない。

アートは自然にやりだすものだって聞いたけど、それって究極の仮定なんじゃないか。
自分はもう少し数学に近いところにいる。

2012年7月3日火曜日

うげ

ちからがでない。
A4一枚ですら書く気にならない。

忙しいけど楽しいか暇だけどつまらないって天と地ほど差がある。

1人はつかれたなー。びっくりするほどやる気でない。

こっちきてから自分の意志で遊んだり、飲んだりしたことあったかな。
ないな。

色んな人に申し訳ないけど素直に考えると今の環境はなんかやっぱり違う気がする。勉強になっている点はあるけど。なんもわくわくしない。


自分の仕事だと、責任を持って言えないや。


今年はだらだら考えよう。自分のペース見失うとダメになる。

2012年5月10日木曜日

5/10

ふとたまに見失う。

自分は何をしているのか。

何をしに来ているのか。

何をしていきたいのか。

何をしてほしいのか。

何が正しいのか。

何を自慢したがってるんだ。

なんでとがめたいんだ。

何に幻滅しているんだ。

いろんな人とうまくやること。

難しいね。

自分の価値観や考え方を押し付けてはいけない。

そうしないと人の力を得られない。

合わせるのは得意かな。

でもさらりと分かってもらうようなそぶりはする。

へんなやつ。


ぎりぎりがけの上をいくように。

とてもとても細いところをくぐり抜けるようにニュアンスや立場のバランスを保つ。

正直に素直に生きていくために頑張る。

2012年4月30日月曜日

4/30

怒濤の4月も最終日となった。

良く乗り切ったなあ。

最後2日先生と一緒にいたのは勉強になった。

建築家かあ。

落ち着いてきたらゆっくり考えよう。

2012年4月21日土曜日

4/21

4月はなにか落ち着かないみたい。

つかれてきたし、冷静に自分の環境を考えられない。
何か他のことに目をやってる暇がない。

生活が成り立ってない。まだまだだな。
むずかしい。

自分は不器用だ。

全部やるしかないんだけど。

やるか。

2012年4月4日水曜日

走れそうなレール

は何処だろう。

建築が楽しい。

けど何かずれたところで楽しんでる気がする。

エゴを嫌いつつ、自分の中からどろどろ出てくるものは好きだったりするからな。

なんなんだろう

「つくる」って



「つくる」って何が重要なんだろう。

誰のためにつくるのか? 

誰得何%? 

動機の純粋度は何% 

普段の生活で感じることにどれだけ素直で関心を持ってるの?

「つくる」ことで誰がどれだけ喜ぶの?

だれかが喜ぶとき僕は喜んでいいの?

クライアントがつくには相手も喜ばなきゃね。

相手が喜んでいたら、僕はいくら不純で汚いことをしても許され、喜んでいいの?

装飾論。意匠論。

それは建築をつくる側からしたら常に1番だけどさ。

使う側は違うんじゃないの?

そのずれってねじ曲げられてごまかされてはいないか。


力や努力が足らないんだろうな。

やりたいことやるにはなおさら。

これからはそれ以外の時間を如何に効率よくこなすか考えて生活しよう。

2012年4月1日日曜日

TOKYO2

とうきょうというまちはにほんぜんこくからひとがあつまる

いっぽうでこの過密都市に年老いてなおすみつづけるひとびとも案外いるようだ

ぼくの生活するであろう東京のなかでも台東区、荒川区は人の臭さにみちているようだ。

いままでのぼくの人生とはまったく違う人生を歩んできたひとたち。

もちろん人生はひとそれぞれだがこれは中国で感じたギャップの大きさに近いとてつもなくおおきな幅のように感じる。

一方でみんな人間である。都市や建築をよりどころにいきている。同じものを食べている。おなじ空気をすっている。同じ光をあびている。

個々の殻は強く、それらがごりごりと押し合い、すり減りながら同じ袋のなかで生きている。

そんな感じ。


ぼくはこの土地に慣れていない。建築にも都市にも。特にそのにおいに。

この土地でものを買い、食べ、水を飲み、シャワーを浴び、光の変化や天気の移り変わりを感じ、一喜一憂し、涙し、酔って、楽しんで、悔しんで初めてこの土地を信頼し、安心できる気がする。

この土地の雰囲気を自分にブレンドする。物理的にも精神的にも生物的にも。

それが完了するとき、自分の中からでてくるどろどろはよりどろどろとしたかけがえのない生命的なものになっていく気がする。

それは楽しみだ。



LEE BUL展をみた。率直な感想はずるい、楽しそう、共感する部分は多いといったところだった。
僕の考える建築はこのようなものだとも思った。LEE BULはより柔軟で器用な印象だ。建築を含む広い領域で思考している。
その点建築家よりも素直で信頼できると思う。
一方で詰めや配慮の深さ、統合して完結させる部分は建築家のほうが強いと思った。
たぶんあえて踏み込まないし、そういった意味で建築に興味はあるという程度の考え方なのだ。

いっている言葉や論理は簡単で非常に分かりやすい。しかし、それ以上にモノの語ることが多く、圧倒的に強い。
建築家は言葉や論理は分かりづらく、モノが弱い。もちろんこれは偏見というか狭い見識でここでは自分のことを考えるとそんな感じ。

「なにがつくりだせるか」

これが大事なんだ。

石上事務所の大変な話聞いたとき、不安を感じたけど少し嬉しかった。結局はそうやってものをつくり出すんだ。LEE BULだっておびただしいドローイングを描くといっていた。
多分半端ないのだろう。

よく弱冠○○才とか紹介されるけど、若いんじゃなくて若くしてそれだけ苦労してるんだな。

俺は頑張る

TOKYO

とーきょーはくさい。

にんげんのにおい。生活のにおい。

人の密度、生活の密度、会話の密度。

すべてはんぱない。

せんだいはきれいだった。

居場所をもたず、こことーきょーにいることは自分のちっぽけさ、やらなきゃいけないということを知らしめる。


朝起きると変わらぬベッドの感触に安心し、ふと顔をあげると見知らぬ世界が広がるギャップ。二度寝などできない。あれはその空間への安心度をあらわすものだな。

ともあれやるしかない。駆け抜けるしかない。
入学までは雄勝とサッカー建築を進めることにしよう。
あとこの1年をどう過ごすかも少しずつ考えていこう。


とりあえず友達がほしい。

2012年3月12日月曜日

がんばるちから

がんばるちから

なにからうまれるのだろう

ききかん。りそう。かちたいきもち。

うーん。


じぶんをしりたいとおもうきもちなきがする。


がんばればじぶんをしれる

ひとといきてじぶんはどんなことをすればよいかわかる


のかな。


とりあえずこれはたしか。

とまってはいけない。

ちからづよくすすむんだ。


...デートしたい

2012年3月6日火曜日

どろどろ

からだのなかからこころのなかから

でてくるどろどろ

いまはわからなくても

きづいたころにはマグマのように

さわれなくしてやる

いまにみていろ

2012年3月3日土曜日

おわった!

SDLのじゅんびひとまずおわった!

でも4日に発表するからパワポつくんなきゃ。

うう。あそびたい。

現実はかたづけ、ひっこし、そつせいちょっと。そしてほんとは研究室のプロジェクト。

あーすべてわすれて一日中あそびたい!

だれかデートしてくれい。

2012年2月26日日曜日

むだい

昨日のことか半年前のことか。

ぶーぶー

ぶーぶー

これっぽっち

ぶーぶー

ぶーぶー

期待?

ぶーぶー

おわり

苦しんだ分だけかっこ良くなれると信じている。

そしてこれはひつような苦しみかな。

2012年2月25日土曜日

さばばばば

さばさば感まっくす。

だいぶ進化したかな。

やっぱ簡単にいくことなんてないし。

慎重にふつうに過ごしていくだけ。

そのあとはそのときなるようになる。

それがタイミングかな。

タイミングといいつつつくっていくもんだと思うし。

こういうこと毎日やっている以上気を配って色んなタイミング増やさないとね。

まっすぐかっこ良く素直に生きるのみ。

そして自分は人を裏切らない。他人を不幸にしない。

そうやって意識していよう。

とりあえずSDLはまえよりも共有できるものに落とすこと。

かっこ良くすること(したいんです)

このプロジェクト自体わがままの塊なんだから自分の指標ででてきた変換は守るし、アウトプットも貫く。で、もっと落とす。

もっと楽しく、誰にでもプレゼンできるものにしてやる。

2012年2月24日金曜日

さばさば

ずいぶんさばさばしてきたけどショックが0になったわけではない。

から無理しない。

もっっっっっっっとがんばってかっこよくなろう。

だれかが見ていてくれるはず

2012年2月23日木曜日

わすれる

かなしいことや寂しいことは忘ればよい。

建築はやればやるほど信用することができなく、嫌いになっていく。

将来どうなっちゃうのかな。

あとタイミングとかチャンスとか重要なのは分かるけど、人によって回数は大きく違うしある程度ずれてても泥臭く頑張ったら許してほしいよね。

楽しいことないかな。

2012年2月20日月曜日

あとちょっと

卒制も仙台にいるのもあとちょっと。

残りの日数を数えるのが嫌なほどさみしい。

あとちょっとしかない仙台の生活を大切にしたい。


一方で現実は卒業設計に追われている。

こんなつまんないことして残りの貴重な日々を無駄にしたくないと思う一方で、忙しさに任せて寂しさを忘れようとしている自分もいる。

でも終わったとき、仙台を離れたとき、一気に寂しさの波が来そうで怖い。

卒業設計はつらいけど、そんなちっぽけな苦しみは今の僕にはどうってことない。

もっと苦しいことがある。


本当に苦しい。

そっちのことで頭がいっぱいだ。



自分大丈夫かな。


とりあえず明日にせまった講評の準備を引き続きやります。


そのあとのほうが心配だ。


おてつだいさん募集だね。

2012年2月18日土曜日

ちょっとげんき

とくに何かあったわけではないけど

落ち込んではいるけど

もらった小さなカードが少し元気をくれる

机においとこ

少しがんばってみよう

2012年2月17日金曜日

じごく

おわらないくるしみ。

いたみとくるしみ。

うーん

たいみんぐってなんなんだ。

それがうまくいかないとだめなのか。

そんなのやだ。

きかいがおおいほうがとくじゃないか。

そんなのこえてしまいたい。

2012年2月16日木曜日

ふぅ

きもちがね。

ふくざつなんだ。

はやくあんしんしたい。

しんらいしたい。

べんきょうとかせっけいとかよりもだいじなこと。

ひとつくらいしんらいできる、あんしんできることがあってもいいよね。

だってつらいもん

なにがたりないのかなぁ

2012年2月12日日曜日

ふもう

きもちのうきしずみ。

かならずあったもの。

くやしさとかうれしさとか。

じんせいのあじつけてきなもの。






それがきえた。

なにしてもくやしくないしうれしくない。



そつけいあっさりおわった。

いままで設計にしぬほどうちこみ、おわるちょくぜんにはたにんにめいわくかけるほどいっぱいいっぱいになっていた。おわったらほっとしたしえらばれたらうれしかった。

それがどうでもよくなった。

べつにえらばれようがえらばれなかろうがどっちだっていい。

ぷれぼがすべておわった。だしたいものぜんぶだした。
つまりりみっとを意識できたということだ。

でもぎゃくにりみっとを意識しなくなったんだ。

きゅうきょくのりみっとをいしきしだしたから。


なんでもおわりがくるんだ。

あたりまえやにちじょうなんてない。

あんていしてあんしんしてるなんてじだいおわったんだな。

ふぅ。

これをせいちょうというべきか。

なにもたのしくなくなった。

かわいいおんなのことでーとしてもどーせとかおもってしまう。

あーあ。22さいにしてこんなにもさとってしまうとは。


しょぎょうむじょうとはよくいったものだ。

まったくそのとおりだ。

なんとなくこわいからだいがくにいる。

あんしんをもとめて。

でもいろんなりみっとはようしゃなくせまる。

こんなりふじんないちねんかんあるもんか。


いろんなものをうばわれた。

そつけいはきもちをあらわしている。

「すべては不毛である」


いまはけっこんにきょうみがある。

なぜならあるはずのない永遠をちかうから。

それにあっちこっちおんなのこをすきになっていられない。つらいわ。
ひとりでいいよもう。なんでいちばんあいたいひとからいちばんあいたくないひとになるんだ。いみわかんない。

これからもいろんなじょーしきやこていかんねんぶっとばしていこう。ほうりつにふれないていどにばくはつだ。

2012年2月3日金曜日

2/2

なんかきえてた。

きずだけのこってるね。

なんかふってこい。

2012年1月28日土曜日

アトノマツリ

やっとわかった。

これはアトノマツリだ。

そして今自分が立ち向かっている悩みや疲れっていうのは少し誰かに話したり、休んだり、新しい経験をしたりしたとこで解決しない問題のような気がする。

一方でこれは何十億年という歴史のなかで、数えきれないほどの生物の1つが一瞬悩んでいるものだとも同時に思ってしまう。

どうせいつか死ぬ

まるで空や地面、雪にまで無言で馬鹿にされてるようだ

それくらいの精神的ショックをうけているんだ(うつとはちがう)


そしたら楽しいことが一番重要だね。

もう我慢などできない。

我慢こそいちばんいらない。

人生の収支をととのえる。

2012年1月26日木曜日

よわね

つらいことがあっても弱音をはかずにストイックに努力するのがいままでだったんだけどなんかいまはちがう。

みとめてくれるひとがいないからなのか

ここではじかんがないからなのか

たんじゅんにたのしくないのがわかってしまったからなのか

とにかくすといっくにがんばる糧になっていた根幹をうしなったのはたしか。

それがかのじょなのか自信なのかとうきょうへいくことなのかはわからないけど、どれも関係していることなのだろう。

とにかくよわくなってしまった。
よわねをはいてるやつがダメだってことはいたいほどわかってる。

でもなんかげんどをこえてる。だれかにいう気力もない。気丈にふるまうしかない。

のりこえたさきになにかいいことがまっていないだろうか。けっして楽観主義ではない。



ほんとうにじぶんはかわってしまった。

連戦連敗

まじで自分からでいけたことない。全部ダメだ。
とくに今年度3戦3敗。それ以外にも1つ勝負する前に負けたのもある。
これはそろそろ自分を認めてもうちょっと努力しないとダメだな。

まじこころ折れるよ。ほんとなんなんだろ。ひどすぎないか。
人間否定されてるみたいだ。
うーん、うーん。
とにかく悲しみ通りこしてあきれたわ。
これぞ持って生まれたポテンシャルか。

いや、もっと頑張ってやる!くそー!

2012年1月25日水曜日

1/25

じぶん本当かっこわるいわ。

もっとかっこ良くなりたいぜよ。

うーわからん。

O.NO.RE

この旅の始まりをよーくよく思い出せ。背筋ピッと伸ばしてパッと思い出せ!

らくらく

きりかえてらくになったん。

ちょいさみしいけど。

たんたん。

のりこえたかな。

まだかな。

だれかあそんでちょ。

まいにちたのしくしたいー。

きもちはすなおにつたえるのみ。

2012年1月23日月曜日

切り替えの日

もうかえってこないならいーわ。きりかえていきます。てか勝手に切り替わってきた。かえってこないもんは待ってもかえってこない。むりしてもしかたない。これで少し楽になってきた。こうやって消してくのはさみしいが仕方ないね。違う方むこう。

2012年1月22日日曜日

2011ねんのきず

癒えたらよい。

まだ癒えてない。


・じしん/つなみ
・ぎゃっぷ
・じっかほうしゃのう
・HKだいのれべる
・しんさいへのむりょくかん1
・あとりえのきびしさ
・だいがくほうかい
・だいがくこみゅにてぃほうかい
・ばいとむしされくび
・ばいとこみゅにてぃほうかい
・わんるーむしぇあ
・ひとりのばしょがきえる
・おがつ1
・けんちくかのむりょくさ
・ふられる1
・そつろんがきえる
・みうちのびょうき
・なにをするのがえらい?
・ひとりせいずしつ
・いんしごうかくのいみ
・おがつおまえどろぼうか
・しんさいてんじのいそがしさ
・ふられる2
・くそてんじ
・とつぜんのて
・ひっこしとおかね
・みんないない
・たちさるかなしさ

書いたら楽になるかなと思って。しかしこんな単純に書けるものじゃないけどいろんなイベントがあったなあ。

たぶん近日中にふたつくらい来そうなんだよね。それがまたねえ。

これだけ一気にくると人間かわっちゃう。
これらをひとりでいっきにしょうかできなくて。

だれかにてつだってほしいよん。

たいみんぐ

たいみんぐさえよければうまくいくことってよくある。

いまてをさしのべられたらイチコロでやられるじしんがある。

これはのってはいけないてだったのかいなか。のっかるてまちがえたかな。

できるだけきれいなてをさしのべてください。よけいだめーじをうけます。

よろしくおねがいしますよ。

まああとすこしでいなくなるのできれいなてをさしのべてくれてもちょっとかなしいかもね。

いらんしんぱいか。

きずだらけなんでぜっさんてぼしゅうちゅう。



2012年1月21日土曜日

1/21

そろそろ本格的に精神がやばい。なんとかしてこの見返りを求めている状態に区切りをつけなければやばい。
いろんな苦しみと戦っているけどもはや説明すらできないほど分かんなくなっている。
卒計とかそんな些細なこともはやどうでもいい。
誰かに相談する気力すらなくなってきた。ていうか自分から相談しても他人に頼っても何も変わらないってことが分かったのかもしれない。
他人に対して愛情もってるつもりだったけど足りないのかなあ。誰も僕を見てくれていない気がする。誰にも必要とされていない。人間的にも機械的にも。

なんか1人だ。

ダメだ。もっと楽観的になろう。そんな自分は素晴らしい人間じゃないし、てかクソなんだからクソらしくだらだらそのときやりたいことをして生きよう。何も義務感を感じる必要はないんだよな。ふぅ。

こえる

何はともあれ精神状態はかなり不安定。

本当に弱い。2011年を1から誰かに説明したいけどそれって何か生まれるの?

結局自分の身を守るために行動してただけなんだ。


こえたい。

自分をこえたい。


まだ自分の変化について行けてないけどこれを乗り越えたとき成長できるのだろうと思う。

いろんな人を見返すためにも必死にいってやる。

怖じ気づいていてはダメだ。



別人になってくる。世界で1人に。

2012年1月20日金曜日

くやしさ

ときどきすべてがものすごく悔しくなる。

もちろん過ぎ去ったものは取り返しつかないし、時間をもどることもできない。

でも悔しい。

それも悔しさが単純なことじゃない。自分のすべてが悔しい。

本当に悔しい。

色んなものを認めさせられた2011年はその分悔しさばかりが残った。

自分を忘れてしまうほど

精神不安定になるほど悔しい

悔しい。

見返せばよいというかもしれないが跳ね返すものが大きく、多分見返すチャンスもほとんどない。

悔しい。

環境が状況が運命が悔しい。

悔しい。

誰かに助けてほしくなったり、誰かに無性に優しくしたくなったりするのはそのせいだろう。

でも誰も助けてくれないし、優しくしたところで何か幸せになるわけではない。

それは当たり前で直接言われたしよくわかっている。それを恨んでる自分も悔しい。

頑張れば頑張るほど悔しくなる。

そんなんじゃ頑張れないよ。

何かかえってきてよ。

最近色んなことを認めて頑張ってるんだよ。

だから何かかえってきてよ。

100認めたら1ぐらいはかえってきてよ。


この苦しみいつまで続くんだろう。

こんなのもたない。

誰か助けて。

2012年1月19日木曜日

ひとなみ

ひとのなみ

ひとのせいかつのなみ

なみにのまれたい

なみなみなみ

むらむらむら

たいくつなのはまったいら

あんていしないのはなみなみむらむら

さあどっち?

たんじゅんなこと

たんじゅんなこと

それはみとめること

それができてその次の行動がスムーズにできるほど人生は豊かになると思う。


たとえば...

「わからない」
頭が悪い、勉強がたりない、環境がわるい、頭が冴えていない

「できない」
力がたりない、時間がたりない、お金がたりない、計画できない

「モテない」
かっこわるい、出会いがすくない


かんたんだ。

馬鹿でもわかる。でもわかっていないんだ。

何かのせいにしてしまう。



みとめること。

人は平等じゃないし、違いを見極めてみとめる。

そしてそれを補おうとする。

それが成長。


何かのせいにしてしまう気持ちもわかる。

怖いしね。

でもそれじゃ前に進めない。


まずはみとめること。

そしてその違いを必ず埋めるんだ。

2012年1月15日日曜日

かっこつけるきもち/ださいことのかっこよさ

かっこつけるきもち。

好きな人に会うとき、なめられたくないときに生まれる。

具体的にどうすることか。

おしゃれな服を着ることか。

積極的に発言することか。

笑顔をふりまくことか。

親切にすることか。



どれにしても素直で純粋な気持ちを相手に示せて好印象だ。

しかしそれらがもし偽善であるならば嫌いだ。


仕事をまかされたい、女の子にモテたいなどはすごく純粋な気持ちに基づいている。
だが良く見られたいために自分を偽ることは見苦しい。
それにあとでばれてしまうかもしれない。


ならば純粋にかっこいい人間でありたい。
ださくてもいいから自分をさらけだしていきたい。

ださいことすらもかっこよくなっていけるように努力したい。

ださいところをみせないとそのださいところはいつまでたってもださいままだ。

そう思っている。

2012年1月14日土曜日

まじわるせいかつ

毎日設計にあけくれる人

毎日研究にあけくれる人

毎日会社に行く人

毎日家事をする人

毎日冗談を言う人

毎日車を運転する人

毎日バイトにあけくれる人

毎日女にあけくれる人



どれかしら何かにあけくれる人は、その単調さと同時に多様性を持っていないと続かない。

多くの人に会うこと。

これさえあればそれなりに楽しい。

そうなってるとは限らないんだけど。



大学生って色んなことを掛け持ちしている。

勉強、サークル、バイト、恋愛とか。

それを生活のローテーションにうまく組み込めたら最高の大学生活だ。

誰にも文句は言われない。

自分も遊んでて楽しいし。


しかしそのローテーションは破壊された。

僕は設計に壊された。

忙しすぎてバイトはできない。サークルもできない。
女の子と遊ぶにも時間と出会いがない。


建築設計は好きだ。しかし、頭を使いながら狭いところで1人で12時間以上考え込むのはよくない。
いやでもこういう哲学みたいなこと考えてしまう。

建築設計を専門にしたら設計8割、余暇2割みたいな生活しかないのだろうか。

そんなのクソだ。


僕は負けず嫌いだ。
人よりもいい設計作品をつくりたかった。それだけなのにこうなってしまった。
まじめに頑張ることが否定されたようだ。以下グチ↓

うちの大学の設計教育もよくない。先生たちはほとんど見てくれない。
とくに去年から震災関係で舞い込んだプロジェクトに没頭していて学生を労働力にしかみていない。確かに勉強にはなる。しかし少しは本来大学で教えるはずのことや個人の作品を見てほしい。




僕は去年からずっと休んでいない。春は震災、夏は院試と雄勝、冬は卒業設計、春は研究室。全部自費で動いているからバイトでためた貯金も消えた。卒業旅行なんて隣の県とかしかいけない。


うだうだ文句たれてすいません。


なにが言いたかったかというと何かに忙しすぎて他の人生を忘れないようにしたいということだ。

何かにあけくれる人は互いになかなか交わらないが努力して色んな人生を覗き込みたい。

設計をやるにしても色んな人と出会って刺激をうけることは予想外の化学変化をおこして結果としてプラスになることが多い。

人と一緒に成長したい。

2012年1月11日水曜日

苦しみと痛み

苦しい、痛いは生きてる証。

僕たちは消費者。

理想のイメージを抱かされている。


自分のポテンシャルを認め

無理なものを無理と認める。

人間が平等なんて史上最大の詐欺だ。


生まれ持ったポテンシャルを

夢を抱くことなく

苦しみや痛みを受け入れる。

それが生きること。


僕は自分のポテンシャルを認める。

しかし、限界点を認めたのなら

それを打破するのみ。

はらぐろ

「まじくそじゃねえのあいつ」

「あんなやつらに絶対負けない」

「あんなやつらと一緒じゃ何も成長できない」




はらぐろいってどういうことだろう。

ぼく、ケッコウ言われてたんだよね。

たぶん上に書いてあるようなことを考えていてそれが雰囲気としてにじみだしていたんだよね。


今でもtwitter とかでウザっとか普通に思うし。

でもなんか前と違う。

確かにウザっとは思うけど、くだらないやつだなとも思う。裏がないとも言える。

まあそれでも程度はあるけどね。


自分の投稿は最近愛想笑いというかあえてくだらないことや表現をするようになった。

裏がないようにみせたいのか。


いや、たぶんはらぐろいことを考えていても何も幸せにならないと思ったからだ。


たしかに「なにくそ!」という負けず嫌いな考え方は勝負に勝つときに必要だと思う。

しかしそれが他人を無視したり、空気を読まなかったり、それを発言したり、なによりも他人の幸せを願っていないということが一番まずいと思う。

僕は建築学科なので僕らの場合、なにか作品をつくっているときに、他人の作品を一緒に良いものにしていこうと思いながら、あいつも頑張ってるし自分も頑張らなきゃってのが一番良好な関係なんじゃないか。

けっしてあいつに勝つとかそういう考えではない。

自分だけ進んでないからイライラしたりするのも違う。


切磋琢磨だと思う。

一緒に成長するんだと思う。

なんだかんだ知らないうちに他人の意見はかなり自分の頭の中に残っていくものでそれを積極的に素直にもらわない手はない。


そしてなによりもそっちのほうがやってて楽しい。


そんな卒業制作の雰囲気になってくれないかなと密かに思ってる。

まあ僕が言うのも変かもしれないけど。


みんなの作品がみんなの納得いくものになるかは分からないけど、できるだけ楽しんでつくってほしい。

2012年1月10日火曜日

こんな気持ち

Nirvana 「Heart-Shaped Box」


幼稚園児みたいな絵。

こんな感じで閉じ込められてるのかな。

いっきいちゆう

気持ちが弾むのも気持ちが沈むのも案外簡単なことなんだな。

さいきんよく思う。

そんなに簡単に変えられることなのに沈んでいるときはこの世の終わりみたいに(この表現は好きじゃないけど)ふるまい、弾んでいるときは沈んでいることがバカみたいに思える。

なんて単純。

勝手な想像だけど歳をとって経験を積んでいくとその反転が起きにくくなるんじゃないかな。

大人になるということなのかな。

僕はすごく気持ちを些細なことに振り回されているので、まだ子供。毎日テンションが違う。


簡単に気持ちが弾んだり沈んだりするのは、他人の気持ちを考える力が足りないからな気もする。

良い意味でも悪い意味でも自分の思ったようにならない、つまり他人の気持ちを感じることができていないから一喜一憂するのではないか。

まあ、もっと人と付き合おう。

つらいことと楽しいこと

つらいことと楽しいこと

バランスが難しい

つらいことが多過ぎてもダメだし楽しいことばかりでもダメだ

ここで難しいのは将来のために今頑張るという考え方だ

つまり今はつらいことが多くて楽しいことがなくても将来の楽しいことのために我慢するという考え方だ

これはその人の計画性によるのかな。

僕は楽しいことを我慢して努力することが偉いと思ってた。

でも楽しいことなんて待ってなかった。

つらいことがつらいことを呼んだ。

何かつらいことを自分からするときはその後の楽しみがしっかりその延長線上にあることを確認しなくてはいけない。

またつらいことがあったときのためにそれを癒せるものも用意しとかなくてはいけない。

そんなこと簡単にはできないけどね。

その一方でつらいことを小さな楽しいことで少しずつ和らげていくという方法もある。

つまり長期的なバランス以外に短期的なバランスもとるということ。

とりあえず僕は今これがベストだと思ってる。

すごく単純だけどできていなかった。

少し意識して生きていこうと思う。

とりあえず女の子は好きだ。

2012年1月9日月曜日

あこがれと狂気

あこがれ。

見つけると自分を向上させるためのモチベーションになる。

ある願望を叶えるために努力を惜しまずに。

立場や見栄を捨てて。

狂気を持っていこう。

2012年1月7日土曜日

1月7日

恥ずかしながら何が足らないのか分かった。

女性。

おそらくトラウマになっているのだろう。
いないと不安になってしまう。

ああ。なさけない。

前はこんなことなかったんだけどな。

あと一息で乗り越えられる気もする。

がんばろ。

2012年1月5日木曜日

1月5日

何をしても満たされない感じはあのときからずっと続いている。

この苦しみから逃れることができない。必死にもがいているんだけど。

僕の未来は明るいのかな。

別に無理な挑戦などしたくない。

答え知ってる人いないかな。

2011年が衝撃的すぎた。そんなに揺さぶらないでくれ。

幸せが何か嫌ほど思い知らされた。

みんな幸せになってくれ。

答えがでるといいな。

乗り越えたら心が強くなりそうだけど、今の痛手を負っているこの心にはかなりきつい。

がんばれ俺。

1月4日

最近悩んでばかり。
他人がどう思ってるか分からない。
または分かっていても認めようとしない。
自分がどうしたいのかも分からない。

卒業設計は詰まり気味。

すごく自己中で弱いんだなって思う。

もっと跳ね返さなきゃ。

明日はよく考えて素直に生きてみようと思う。

明日会うすべての人々との時間を大切にしよう。